【 魔の帰巣人形 】(8)

それはまるで次の瞬間には草原の闇にはかなくフッと消え去ってしまう蛍の燐光のように見えた。時々明滅しているように揺れて見えるのは、やはり電気ではなくロウソクの炎だからだろうか。
TTはパン屋の小さな光源を見つめながら、一瞬迷った。ジッツオはあそこにある。ザックはこの教会の一室にある。そして一眼レフと自分はここにいる。
「妙な具合だな。まるで自分の体の一部をあちこちに置いてきたみたいな気分だ」
苦笑したものの、とにかく動かねばならない。すべてが元どおりとなって一体化するために、いまは即座に行動しなければならない。

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急いでザックを置いた部屋に戻った。パスポートと財布は常に肌身離さず身につけている。ニコンの一眼レフ2台と完全防水オートマチックを持っていたが、オートマチックだけを持っていくことにし、一眼レフ2台はザックの中に置いて行くことにした。
この部屋のドアに鍵はない。不安だったが、「ここは教会だ。大丈夫だろう」という考えに賭けることにした。先ほどの聖職者(……彼にはその老人が神父なのか牧師なのかということさえわからなかったが)、その聖職者に声をかけて行くべきかどうか一瞬迷い、「なんて声をかける?」と気がついて苦笑した。言葉が通じない異国に旅することには慣れているはずが、片腕のように大事にしてきたカメラ三脚を置き忘れてきたのだ。「……俺ともあろうものが」という苦い気分だった。「いったいどうした?……こんなことはかつてなかった」と動揺する気分をなかなか抑えられなかった。
教会を出た。夕闇せまる坂を駆け降りた。集落を出るまでに数人がこちらを見ていたように思ったが、気にしないで走った。

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「妙な話なんだけどね。その夕焼けがね。なんとも言えない、今までに見たことがないような重い赤なんだよね。いまでもはっきりと覚えてるよ。日本の夕焼けと違って、独特の暗さがあるというか……どことなく不吉というか……」
急ぎの用事で走っているとはいえ、手にしているのは愛用の一眼レフではなくオートマチックだとはいえ、思わず立ち止まって数回のシャッターを切らずにはおれない夕暮れだった。「なるほどドラキュラ伯爵が愛した赤とは、まさにこういう赤なんだろうな」と想像した。
「流れ出た血は、すぐに固まってドス黒く変色していくだろ?……なんかそういうのを連想するような赤だったね」
TTの目が左右に微妙に揺れている。その瞬間をありありと思い出しているのだろう。
「……同じサクランボでも、日本の山形でとれるサクランボはオレンジに近くて、色がかわいいだろ?……でも外国から入ってくるダークチェリーは大粒で、ずしりと重い赤だろ?……なんかそういう感じの重い赤だったね」
「ああなるほど」と私は言った。「ターナーのアクリルガッシュでボルドーという名前のやや重い赤があるよ。たぶんそれだろうな」

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やっとの思いでパン屋に戻ってきた。正面のドアには鍵がかかっていた。「やはり」と思わざるをえない。裏口も同様だろう。老人は屋内から鍵をかけていたのだ。
「なぜさっきはそこに気がつかなかったのだろう」と思いつつ、ドアをノックした。数回ノックして屋内の気配をうかがったが、コトリとも音がしない。「寝てるのか?」と疑ったが、いまはもう引き返す気分には到底なれない。やや荒いノックとなってしまったが、構わず続けた。「これで出てこなかったらもう……」という気分だった。「足で蹴飛ばしてドアを倒してでも、中に入ってやるぞ」

下手をしたら、警察沙汰になるかもしれない。もしそんなことにでもなったら厄介千万だ。そうは思ったものの、怒りに近い感情に彼は支配されかかっていた。いよいよ「こんなボロドア、ひとつ蹴飛ばしてやるか」という気分になったとき、背後から声をかけられてハッと我にかえった。
振り向くと、初老の婦人が立っていた。買い物かごを手にしていたが、中は空だった。彼女はなにか話しかけながら近づいてきたが、やはりなにを言ってるのかさっぱりわからない。近くまで来て異国人だとわかったらしく、ハッと足を止めた。

一方TTは婦人を見て、救われたような気分になった。相変わらず言葉は通じないものの、この婦人を介して事態は好転するような気がしたからだ。
「見ただけで?」私にはちょっと不思議に思えた。
「まあそうだ」と彼は曖昧に肯定した直後に、ハッと思い出すことがあったらしい。
「なんとも言えない穏やかな笑みというか、なんかそういうのを感じる人だった」
多くの外国人は、相手が異国人だと知るとサッと表情が硬くなる。明らかに警戒色の濃い表情となる。しかしその婦人は違った。自分の知らない異国人だと知りつつも、穏やかな笑みを浮かべていた。TTはその笑みを見て救われたような気分になったのだ。
「なんて言うか。……まるで珍しい花を見かけたような笑顔だったね」
いかにも異国での活動が多いカメラマンの感想だ。私はそう思った。

……………………………………   【 つづく 】

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