【 魔の湖底 】(4)

遭難事故は4月6日に発生した。早春の琵琶湖。水温はかなり低かったに違いない。なんらかの理由で転覆した競技用ボート。湖に放り出された11人の青年。しかしいずれも筋骨たくましいボート部員だ。全員がそのまま溺れるなんてことがあるのだろうか?
「転覆の原因はわかっているのですか?」
「ああ、比良おろしらしい」
「比良おろし?」

春一番に琵琶湖北部で荒れ狂う局地風らしい。丹波高地から琵琶湖に向かい、比良山地の急斜面を一気に駆け降りるようにして吹く。その威力は停車した貨物列車を横転させるほどだという。電車が速度を落としたり運転を見合わせることもしばしばで、地元の漁師たちもかなり恐れている。
「つまり突風でボートが転覆したと?」
「時期が時期だしな。それ以外には考えられん。ボート部員たちはウミを縦断するつもりだったらしい」
彼は指を伸ばして琵琶湖の一点を示した。竹生島の南。先ほど彼が「やばいところだ」と言った水域だった。

ふたりとも沈黙した。私は次の説明を待っていたのだが、彼は地図上のそのポイントを眺めたまましばらく黙っていた。「もしかして」とふと思った。この人は遭難したボート部員となにか関係があるのか。
「このあたりで沈んだヤツはな、二度と浮かびあがってこない。そういう伝説がある」
「浮かびあがらない?……なにか理由が?」
「ひとつには、このあたりは琵琶湖で一番深いところでな」
「どれぐらい深いのです?」
「ざっと100mはあるらしい」

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むこうの方から笑いさざめく声が聞こえてきたが、我々の周囲は深い湖底のように静かだった。ひとりの青年が席を立ち、こっちに向かって歩いてきた。たぶん我々を自分たちの席に誘おうとしたのだろう。しかし近くまで来て、我々の異様な雰囲気を察知したのだろう。黙って戻っていった。

「水深が100mもあると、浮かび上がってこないものなんですか?」
「それはわからん。とにかくひとりも浮いてこん。ダイバーや網を使うしかない」
「……で、見つかったのですか?」
「2ヶ月かかって、やっと数人が見つかった」
「2ヶ月!」

「しかもな……」
声のトーンが変化した。彼はおちょこを口に運ぼうとして、それが空であることに気がついた。「チッ」と短く舌打ちをし、バッグからダルマをひっぱり出した。こぼれそうなほどオールドを注ぎ、一気に半分ほど飲んだ。
「見つかった死体なんだが、まるで死んだ直後のようだった」
「2ヶ月もたっているのに、ですか?」
「ああ、どこも腐ってなかった」

私は前のめりになっていた上体をゆっくりと引いた。背もたれがギシッと音をたてた。
「それはつまり……湖底の水温が相当に低いということなんですね?」
「大学生たちがどこまで沈んだのかわからんがな」
彼は手帳を開いた。細かい文字がびっしりと書き込んであった。なにか話をするために手帳を開いたように見えたが、ふと視線を上げて私を見た。
「ダイバーも底まで潜れるわけじゃない」
「そうでしょうね」

その瞬間、なにかがひらめいた。
「もしかして、ダイビングに興味があるのですか?」
なにかを話そうとしていた彼の声が止まった。
「面白い男だな。なんでわかった?」

……………………………………    【 つづく 】

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