【 魔の湖底 】(7)

「声をかけていただいた理由ですが……わかりましたよ」
男の口元からフッと引っ込むようにニヤニヤ笑いが消えた。先程から幾度か思ったことなのだが、彼の独特の冷たい笑いにはどこか作為的な、嘲笑めいたところがあった。意識してその笑顔を相手に向け、前もって用意された笑顔の裏で、まったく別の考えをめぐらせているのではないだろうか。そのためか他の方向に意識が走った時には、ニヤニヤ笑いは一瞬で消えた。「奇妙な笑いだな」と私は思った。「こういう複雑な笑いは大学や男子寮ではまずお目にかかれないな」とも。

「聞こうか」
「絵を描け、というのでしょう?」
「……」
「湖底の、腐らない死体の博物館。ちがいますか?」

男は即答しなかった。ふと視線が動き、空になっていたおちょこにオールドを満たした。「酒に強いのだろうな」と私は思った。しかし大丈夫だろうか。ウィスキーはアルコール度数40ほどもある強烈な酒だ。おちょことはいえ、こんなのをストレートでグイグイと何杯もやっていたら、そのうちに椅子からずり落ちて、床でダウンするかもしれない。

「描けるか?」
今度は私が沈黙する番だった。「描いてもいい」と思ったが、ふと警戒心が走った。
「かりに描いたとして……」私はわざとゆっくりと、言葉をひとつひとつ選ぶようにして言った。「なんに使うのです?」
「そんなことは知らんでいい」

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私は黙った。そんなことは知らんでいい?……人に絵を頼む際に、そんな物言いはあるだろうか。無言でビールを一口飲み、グラスを置き、無遠慮にまじまじと彼を見た。私はホロ酔いだったが、彼はかなり回っているような雰囲気だ。酔いのせいでこんなぶっきらぼうな口のききかたをするのだろうか。
「コイツはクダを巻くタイプかもしれないぞ」という警戒心があった。普段は男子寮などという貧乏人の巣窟のような建物で暮らしているせいで、「酔った男がどのように変貌するか」というパターンはひととおり目撃していた。笑い上戸、泣き上戸……笑ったり泣いたり脱いだりするのは勝手にやらせておけばいいが、怒ったり説教を始めたりするのは始末に困る。

「逆の立場だったら、どうします?」と私は言った。「そんなことは知らんでいい。……そんな言い方をされて、描きますか?」
男はジロッと私を見たが、答えなかった。我々はしばらく無言で、互いの酒を口に運んだ。

どうやらお隣のにぎやかな団体さんが我々の席のただならぬ気配を察知したようだった。「そりゃそうだろうな」と私は思った。我々の方をチラッと見てヒソヒソと話をしている学生が数人いた。彼らはぞろぞろと席を立った。酒を飲むにしても別の部屋でやるのだろう。
「正解だ」と私は思ったが、周囲を見回すと、宿の人がひとりもいない。うわっ、このガランとした食堂に我々ふたりかよ。これは正解とは思えなかった。

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「○○組を知ってるか?」と男が言った。
「○○組?」
どう考えても暴力団としか思えなかった。「建設会社ですか?」と冗談を言いたくなったが、やめておいた。冗談が通じるような雰囲気からはほど遠かった。
「知りません」

「このあたりじゃ有名な組でね」と男は言った。「オレはそいつらの幹部が興味を示すような資料本を作ろうと思ってる。しかし文字だけじゃ、まず読まない。ウミの写真を出したって意味がない。パッと見てそいつらが興味を持つような絵がほしい」
「なるほど」
ようやく男の意図が見えてきたように思った。
「しかし幹部に見せてどうするのです?」
「決まってるだろ?……カネを出してもらうのさ」
「そのカネで調査すると?」
「まあそういうことだ。連中は気にいった話なら、ポンと500万ぐらいは出す」
男は再びニヤニヤと笑い始めた。

……………………………………    【 つづく 】

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