「絵の報酬は出るのですか?」
しばしの沈黙。……とはいえこれはある程度予想された質問だったのかもしれない。男の表情からうすら笑いは消えず、即座に答えない態度にはどこかしら腹黒い企みを隠し持っているような印象があった。
「○○組からカネが出た時に出す、というのはどうだ」
「金額は?」
「いくらならやる?」
我々の会話は質問の投げ合いとでもいうか、いつしかそんな感じになっていた。しかしじつを言うと、この時点ですでに私の結論は出ていた。いまどきの言葉で言えば、「ドンビキ」に近い。「○○組」が話題に出てきた時点で「そういうことか。それでこんな目つきの男なんだな」と思った。「ヤバイ男だな。これ以上関わらない方がいい」という結論は即座に出た。しかし手のひらを返したように態度を変えて逃げるわけにはいかない。この男は酔っている。慎重に引き際を考えないと、どう豹変するかわからない。
「やめておきます」
すぐにでもこう告げて席を立ちたい気分だったが、もう少し会話を重ねながら退路を探した方がよさそうだった。
……………………………
「しかし湖底に多くの死体が腐らずにただよっている、ただそれだけの推測で○○組はカネを出しますかね?……証拠はなにもないのでしょ?」
「湖底に眠っているのは死体だけじゃない」
「へえ、そうなんですか。他になにがあると?」
彼は手帳を開いてなにかを説明しようとしたが、いったん開いた手帳をまた閉じた。
「そんなことは知らんでいい」
またその返事か。
「……やるのか、やらんのか?」
「最近、大学の講義で人体デッサンを始めたのですが」と私は言った。これは事実だった。立ちポーズのヌードモデルに向かって金属パイプの小型イーゼルを立て、木炭デッサンする講義が始まっていた。なにしろ初めてのことであり、石膏の胸像をデッサンする腕にはそこそこの自信があったのだが、そんな経験と自負はなんの役にも立たなかった。
「人体の難しさを痛感しています。いまの未熟さでは、到底お役に立てないです」
男は黙っていた。その表情から笑顔は消えていた。
「この話は……」
「まあ、待て」
男は右手を突き出した。「待て」という言葉と手の動きには、微妙に酔いと怒気がふくまれていた。すでに椅子から尻を少し浮かしていた私は行動を止めた。
「まあ、座れ」
私は尻を椅子に戻した。
「ここまで話を聞いて、やりませんはないだろ?」
今度は私が黙る番だった。なんと答えたものか見当がつかず、男がなにを言いたいのかもさっぱりわからなかった。
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まるで根比べのような沈黙だった。男は空のおちょこにオールドを注いだ。私はコップに三分の一ほど残っていたビールを一気に飲んだ。
「話だけ聞いて逃げるのは、まあ許してやる」と男は言った。「そのかわりに、この事業に少しばかり援助をしてもらおうか。まあ3万円と言いたいところだが、学生なんで半分にまけてやる。1万5000円を置いていけ。それで許してやる」
この時の私の驚きを察していただきたい。「せっかくの琵琶湖旅行が、この酔っぱらいのおかげで台なしだな」と苦い心中でいたら、さらに「恐喝の上乗せ」と来た。「まあひどい旅行になってしまったな。琵琶湖とは相性が悪いのかな」とあきれる思いで男をまじまじと見た。さらになにか言うだろうか。もう少し待ってみたが、それ以上の言葉はないようだった。「もうこうなったら」と思った。時間を稼ごう。この恐喝男を酔わせてしまおう。
…………………………………… 【 つづく 】
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