【 戒厳令生活 】
日本ではあまり耳にしないが、フィレンツェ在住の友人画家との対話では「戒厳令生活」という言葉がしばしば出てくる。なんだか「戦時下」といった雰囲気のキナ臭い言葉だ。友人(日本人)と同棲中の彼女(イタリア人)はこの2ヶ月近く、ほとんど外出していないという。やむなく日用品を買いに出る時もドキドキで、警官の目に止まらないように素早く往復しなければならない。自動小銃を引っさげた警官の目に止まって「待った」をかけられたら最悪だ。
「特にあなたはその可能性が高いのだから」
友人は彼女から何度もそう言われている。ルックスが一見して東洋人であり、現地では東洋人イコール中国人とみなされ、中国人イコール「この国に新型コロナウィルスを持ちこんだヤツラ」と見なされてしまうからだ。石が飛んできてもおかしくない状況だという。
まして警官につかまったら大変だ。中にはこれみよがしに銃を構え、強圧的な態度をとる警官もいるらしい。つかまったら、その場で書類に必要事項を書かされる。氏名、住所、生年月日、アイデンティティカード番号、そして「外出の理由」や「行き先」まで書かねばならない。「外出の理由」如何によっては声高に怒鳴られることもあるという。
「食料の買い出しで、いま家に帰るところ」というのが(なんとなく伝わってきた)最も無難な模範回答だという。日本じゃちょっと考えられない。二輪で田舎町を走っていて「コラッ。携帯!」という看板を見て思わず笑い、「ひどい言葉だな。まさに警察的性悪説」と思ったことがあるが、まあその程度だ。
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「まあしかし、すっかり慣れた感もある」
最近の実感らしい。気分的に動揺し、まるでナチから隠れ潜むユダヤ人のような心境で戒厳令生活をキツく感じたのは発令された直後の1〜2週間で、もうすっかり外出禁止生活にも慣れてしまったという。
「以前の生活がはるか昔のことのようだ。とんと思い出せない」
その話を聞いて「西部戦線異常なし」を連想し、その話を持ち出した。彼は知らなかった。あらすじを説明すると、興味を示した。「読んでみたい。最近は読書量が増えた。いい傾向だ。ネットで買う」と言った。
「西部戦線異常なし」はレマルク(ドイツ)が書いた反戦小説である。主人公のパウル・ボイメル(18歳)は半ば強制的に志願入隊するのだが、「戦争が終わっても、大人たちは以前の生活に帰ることができる。その基盤が固いから」といった意味のことを語っている。しかしパウルはもはや元の生活には戻れない。その基盤ができてしまう前に戦場に出てしまったからだ。
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いまのこの状況を「特別な状況」「一時的な我慢生活」ととらえ、「1日も早く以前の生活に」と願うことができる人は、むしろ幸いと考えるべきかもしれない。経済的な理由、年齢的な理由、仕事上の理由で「もはや以前の生活に戻れない」と思いつめている人々が連日のように増え続けている。「感染しないために」「死なないために」という行動から一歩進んで、いま我々は「今後を生きていくために」どう行動するべきかを考える時期にきている。
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【 負の側面 】
最近、友人画家が持ち出した「負の側面」という言葉につき、あれこれ対話していることが多い。彼としてはなにげなく使った言葉かもしれないが、私はこの言葉に興味を持った。
「つまり心の弱い部分とか、理性で制御できない部分とか、そういうのか?」
「まあそうだね」と彼は言った。「増えすぎた人間というのは、自然界でいえば大増殖だろ。異常発生してしまった動物は〈これはまずい。増え過ぎちまった〉というので、自分たちの数を一気に減らすような奇妙な行動に走ることがある」
「レミングみたいな話だな」
レミングの奇妙な行動は御存知だろうか。和名では「旅ネズミ」。北極近くのツンドラ地帯に生育している。なんだかファンタジー小説に出てきそうな面白い和名だが、もちろん理由がある。3〜4年周期で急にその個体数が増えるのだが(理由は不明)、どっと数が増えると、集団移住を開始する。その大移動の途中で海や川に落ちたりして数がぐっと減ってしまうので、「レミングは集団自殺する」という説がずいぶん長いあいだ信じられてきた。しかしこれは近年の研究でまちがいとされている。自殺ではなく事故だいうのだ。しかしそもそも「なぜ集団移住を開始するのか」という根本的な理由が謎であり、そのきっかけもわかっていない。
「つまりレミングの集団移動に近い習性が人間にもあると?」
「わからんけどね。人間は集団移動はしないけどね、ペストとか疫病とかそういうのがパンデミックになってパニックになった時に、陰湿な犯罪者がどっと出てくる。あるいは人の心の弱い部分があらわになったような事態が次々に起こる」
「うーん、怖いね。それが一種の、人間の自然淘汰に繋がっていく?」
「もちろんそれは勝手な想像だよ。そう言いきってしまうことはできない。しかし現実的に高齢者がバタバタ死んでる。かつてない速度でフェイクニュースが縦横に飛び交う。平時にはまずありえないような奇妙な事件が次々に起こる。好機到来とばかりにデマゴーグが出て来る」
「デマゴーグ」という言葉は御存知だろうか。次回はデマゴーグの話をしたい。
…………………………………… 【 つづく 】
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