【 生物学魔談 】魔のウィルス(11)

【 スペイン風邪 】

前回、「マイカーでさっと外国に行く」というヨーロッパ感覚をうらやましいと書いた。もうひとつ「ああいいなあ。うらやましい」と思うことがある。それは日常的に多くの国の人々と交流できることだ。もちろんそれは人により、住む街により、生活により、違いはあるだろう。……ともあれフィレンツェ在住の友人の話にはじつに多種多様の国の画家仲間が登場する。フランス人、ドイツ人、イギリス人、スペイン人、ベルギー人、アメリカ人、中国人。

国家も民族も宗教も言葉も違うが、ただひとつ「絵を描く」という共通項で、彼らはお互いを認め合う。言葉はうまく通じなくとも、絵を見せ合って様々な交流をし、あるいは助け合う。日本では美術大学のキャンパスでもない限り、市井でそうした光景を見ることはまずないし、そもそも日本の美術大学はその多くが都市の中心になく、郊外の丘の上などに移動してしまっている。

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「スペイン風邪はまちがった名前だという事実、知ってるか?」とフィレンツェ在住の友人が言った。世界ではいまだに多くの国で「スペインインフルエンザ」とか「スパニッシュインフルエンザ」と呼ばれている。事実を知らない人がこれを聞けば、当然ながら今回のパンデミックにおける武漢のように「スペインから始まったインフルエンザ」と思うだろう。米国大統領はいまだにWHOの勧告を無視し、公の発言で「中国ウィルス」「武漢ウィルス」を連発している。しかしスペイン風邪は、スペイン発祥ではない。

「日本じゃスペイン人がどう思ってるかなんて、誰も考えてないだろ?」
「そうだね。そもそもスペイン人がまわりにいない。今まで日本国内で会ったこともない」
「こっちの画家仲間じゃ3人ほどいるんだけどね」
「さすがはイタリア。国際色豊かだな」

イタリアに絵画や彫刻を学びに来るスペイン人は多い。レオナルド・ダ・ヴィンチを慕ってフィレンツェに来るスペイン人アーティストも多いそうである。彼らはみな怒りをあらわにして、あるいはさも悲しそうに「WHOはなにをしているのか。なぜこのまちがった名前を正してくれないのか」とWHOを非難するという。中には「アメリカが陰でそれを阻止しているからだ。スペイン風邪はじつはアメリカ起源だという事実をアメリカは掴んでおり、アメリカ風邪にさせないために阻止しているのだ」と公然とアメリカを非難するスペイン人もいるという。

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スペイン風邪。1918年から4年間にわたり、世界中で猛威をふるった魔のウィルスである。たまたまその時期、世界は第一次世界大戦(1914〜1918)の終結時期であったため、参戦国は厳重な情報統制を敷いていた。当然ながら士気に関わるとして、このパンデミックは報道されなかった。

じつにひどい話だが、「戦争中」という国家の非常事態により「ウィルスが兵士を次々に襲っている」という事実を封じこめて国民に知らせなかったのだ。参戦国であるドイツ、イギリス、フランス、アメリカの兵士は戦死ではなく、このウィルスでバタバタと倒れた。世界中で5000万人から1億人が感染で死んだと推定されている。戦死者はざっと4000万人。4年間も続いた戦争よりも多くの人間を殺したウィルスなのだ。

一方、スペインは参戦せず中立国としての立場を守ったため、その報道に規制はかけなかった。その結果、スペイン国内での感染拡大が報道され、とりわけ国王の感染が大きく報じられて世界が知ることになった。
「スペインで新種のインフルエンザが流行しているらしい。国王も重体で、人がバタバタ死んでるらしい」という報道が世界中を駆け巡り、いつしかそれは「スペイン風邪」と呼ばれるようになってしまった。なんとも皮肉な話である。戦争には参加せず、報道にも規制をかけなったというもっとも正しい道を選んだスペインが、この不名誉なレッテルを貼られることになってしまった。スペイン国民が怒るのも無理はない。

「……で、スペイン風邪は1918年の夏から秋にかけて大騒ぎになって、いったん収束したかに見えた。ところが次の年の1919年にエライことになった」
「変異して強くなった?」
「そう。1919年に大騒ぎになったのは秋から冬にかけてだよ。つまり〈あー、なんとか収まった。やれやれ〉から1年たって、再び襲ってきた。しかもさらに強力になって」
「怖いねぇ。今回もその可能性があると」
「まさにそうだね。そこだね。なにしろ100年前の話なんで、〈今とは時代が違う。今は医療も知識も進んでる〉とみんな思ってる。しかし本当にそうだろうか。ウィルスはどこから出てくるのか。どのように潜伏しているのか。それさえはっきりわかっていない。なにが引き金で変異するのか。それもわかっていない」
「社会が変わる。もう元に戻れない。……そう言ってる学者もいるね」

友人をとりまく画家仲間は、その多くが「いまこそアートが人類に貢献する時だ」と思い始めたという。主題や画風を変えた画家仲間が次々にいるらしい。
「人類は疲弊し始めている。サグラダ・ファミリアの完成を早めるべきだ」
多くのスペイン人がそう決意しているという。

……………………………………    【 つづく 】

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