【 文字を持たない文明 】
「魔の記録」といえば、あなたはどんな記録を連想するだろうか。
カメラマンの友人は、高校生時代に古書店でマチュ・ピチュの写真集が目に止まった。電撃に打たれたような感動を覚えた。彼はその遺跡が地球のどのあたりにあるのかさえ知らなかったが、写真を見た瞬間に「オレは最高級のカメラを手に入れて、ここに行く」という壮大な決意が生まれた。その目的のために大学時代にはアルバイトに精を出し、キャノンA1(当時話題になった一眼レフ)を手に入れた。そして大学4年生の夏、彼はついに標高2430mのマチュ・ピチュに立った。なかなかいい話である。
帰国後、彼が言った。
「スペイン人は、とんでもないヤツラだ」
これはまあ、彼がこよなく愛するインカ帝国を滅亡させたのはスペイン人であることを考えると、なんとなく言いたいことは想像できる。
「インカ帝国には、文字がなかった」
この話を聞いた当時、インカ帝国についてさほどの知識がなかった私は、これには驚いた。
インカ帝国は文字を持たない文明だった。なので記録がない。マチュ・ピチュはなんのために建設された街なのか。インカ帝国の首都であったクスコと、どういう関係にあったのか。いまだによくわかっていない。しかしつい最近、「khipus/キープ」と呼ばれる「結び目つきのひも」が注目されている。文字を持たないインカ帝国では「結び目つきのひも」を使って様々な出来事を記録していたというのだ。現在、ハーバード大学のゲイリー・ウルトン教授と生徒がその解読を研究している。
文字はなくとも記録はできる。そしていま、記録の主流はスマホカメラだ。写真や音声つきの映像、その膨大な数の記録が、いまこの瞬間も生み出されている。文字はもはやその解説という役割でしかない。いいとか悪いではなく、時の流れ、道具の進化、人類の興味の推移、そういうものであろう。
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【 魔の記録 】
さて本題。
どこそこに行きました、だれそれに会いました、こんなものを食べました……そのような個人的ゴミ記録は、やがてそのゴミ生産人が消滅すれば、一蓮托生的に消えてしまう運命にある。したがってゴミ記録生産人が生きている間に、せいぜい楽しめばいい記録だ。
では「魔の記録」と呼べるほどの記録とはどんな記録であろうか。それは「えっ、そんな記録、あるの?」とその内容を聞いた瞬間に震撼するほどのものでなければならない。あたかも映画「マトリックス」冒頭に登場のモーフィアスが「真実を知りたいかね?」と言いながら見せるふたつの小瓶のように、その記録を知るか知らないでおくか、背筋に冷たいものを感じながら「知りたい」と伝えるようなものでなければならない。そんな「魔の記録」があるのか。あるのだ。SF映画の世界にそれはある。
「ブレインストーム」(1983年)
御存知だろうか。38年前のSF映画(アメリカ)である。興行収益的にパッとしなかった映画なのだが、じつによくできている。昨今でよく見かける「バーチャルリアリティー・ヘルメット」を先取りしたようなヘルメットが登場する。
「ブレインストーム」と名付けられた研究。研究者たちが開発したヘルメットマシーンの目的は、それをかぶった人間が受けた知覚を全てデータ化することにある。別室で同じようにヘルメットマシーンをかぶった人間にリアルタイムで五感を伝達する。データなので完全な記録もできる。見る、聞く、食べる、においをかぐ、さわる……そうした知覚が全てデータ化され、記録され、別の人間に伝達できるというのだ。
これはもう現代では「ああ、見る、聞く……それならもう十分に可能ですよ」という段階に来ている。残る三感、すなわち味覚、触覚、嗅覚についてはこれから先、実現可能なのかどうかわからないが、とりあえずそれが可能になったとしよう。この映画はそこから始まる。完成に近づいた段階で様々なトラブルが発生するのだが、最大のトラブルは、この研究を率いてきたリリアン博士(女性)が心臓発作に襲われて死んでしまうのだ。しかもそれが静かな臨終ではなかったのだ。
そのとき、研究所には彼女しかいなかった。このシーンが怖い。本当に怖い。心臓発作の激痛に何度も襲われ、手を伸ばした先の薬のビンは床に転がり、彼女はいよいよ死を悟る。なんとヘルメットマシーンを起動させ、自分に装着する。死ぬ瞬間の自分の知覚を、全て記録してしまおうというのだ。まさに戦慄の決意。
こうして「魔の記録」を残して彼女は死んでしまう。さてそのデータをどうするか?
ヘルメットマシーンをかぶり、そのデータを再生させたあなたはどうなると思います?
というわけで私はこのSF映画をとても高く評価しているのだが、いかんせん、内容が重かったせいか興行的にはダメだった。制作費に対し収益は半分程度。ダグラス・トランブル監督映画はこれが最後となった。
この監督にもっとSF映画を作ってもらいたかったと今でも思う。こう言ってはナンだが、どうもアメリカ人の映画観というのは、ポップコーンをモシャモシャと食べながら観て、「あー、面白かった」と映画館を出るような「娯楽に徹した映画」でないとウケない。そんな気がする。言い過ぎだろうか。
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追記。
「ブレインストーム」で、研究に邁進する主人公マイケル(クリストファー・ウォーケン)を支える奥さんの献身的な行動が魅力的だ。アメリカの女優に詳しくない人でも、ナタリー・ウッドと言えば(60代以上の人であれば)その名声を聞いたことがあるのではないだろうか。ところが「ブレインストーム」撮影中に、彼女は水死した。この映画が彼女の遺作となってしまった。「ボートの水没事故」ということらしいのだが、不審死ということで2018年に再捜査が開始されている。
「ブレインストーム」はSFのフィールドで臨死体験を真面目に扱った映画だが、その撮影最中に逝ってしまったナタリー。彼女が現実に遭遇したリアル臨死体験は、この映画と比較してどうだったのだろうか。映画のエンドロールには、「TO NATALIE」とある。
………………………………………* 魔の記録・完 *
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