【 愛と愛欲 】
「愛」が人間にとって最も崇高な「あるべき姿」であることは言うまでもない。聖書にも愛の尊さは高々と謳いあげられている。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
……(コリントの信徒への手紙・13章)
この部分は「愛の讃歌」と呼ばれている。キリスト教国では結婚式で読み上げられることもよくあるそうだ。
ところが漢字とは面白いもので、この「愛」に「欲」がくっついただけで意味はガラリと変わる。燦然と輝く「愛」の崇高なイメージはたちまち失墜し、闇の広がる世界となる。その闇には人間のドロドロした「魔のダークサイド」が見え隠れしている。その闇こそが、古今東西の劇作家や小説家や映画監督が愛して来たフィールドだと言えるかもしれない。
そこで「魔談」では、
「愛欲」に取り憑かれた人々、
「愛欲」テーマの作品、
「愛欲」を語る人々、
こうした話を次回から取り上げていきたい。題して「愛欲魔談」。
その開始にあたり、念のため書いておきたいことがある。こうした話題は、ややもすると3面ゴシップ記事的な誹謗中傷に走ってしまう傾向がある。それは筆者も重々に承知している。しかし「魔談」が追求しようとする世界とはそのようにレベルの低いものでは決してない。
……などと書くと「大した連載でもないくせになにを偉そうな」と笑われてしまいそうだが、こうしたことは最初に(あるいはふと気がついた時に)「大見得を切る」ではないが、筆者の心意気なり自戒なりを語っておくことにより、その後に続く自分の仕事に対する最大の叱咤激励になっていくものであると信じている。
【 宗教 vs 愛欲 】
さて「愛欲」という言葉をもう少し具体的に見ていこう。
「愛欲」には2とおりの意味がある。
(1)性的な欲望。
(2)仏教用語。欲望に執着すること。
いずれにしても人間の堕落を強く感じさせる内容だ。だからこそ宗教としては看過できない厄介千万な人間の性(さが)なのだろう。
古代仏教においては愛欲を強く否定した。したがって修行僧たちには「愛欲を超越した存在」たらんことを強く要求した。
日本の仏教ではどうか。筆者の大雑把な分類で恐縮だが、愛欲に対しては以下の3派に別れたように思われる。
(1)否定派/絶対にあかん。
(2)救済派/浄土教。否定はしないが、罪の意識は持つべき。阿弥陀仏に救いを求めよ。
(3)浄化派/日蓮仏教。否定はしないが、ちゃんと題目は唱えること。されば浄化されん。
宗教として愛欲をどのように扱うべきなのか。否定か肯定か、条件的肯定か。じつに手を焼いてきた「人間の性」であることがよくわかる。しかしまた古今東西の文芸・絵画・演劇・映画など、なんと多くの作品が(表向きであれ裏向きであれ)「愛欲」テーマで創作され、多くの人々に共感や興奮や背徳感を与え続けてきたことか。
誠に「愛欲」こそは、人間に忍び寄り、隙あらば堕落させんと画策する「魔」であるように思われる。
✻ ✻ ✻ 愛欲魔談/まえがき ✻ ✻ ✻