【 愛欲魔談 】(20/最終回)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 小説の楽しみ方 】

小説を楽しむにあたり、「結末はどうなのか?」という件、あなたはとても気になる方だろうか。「そりゃそうでしょう」という人の方が多いに違いない。「結末が知りたくて読み進むのだから」というわけである。映画もそうだ。「結末に向かってノンストップで突き進む快感がたまらない。なのでCMの中断が入ったテレビの映画なんか絶対に観ない」という友人がいる。私もそれに近い。

一方、世の中には不思議な「小説の楽しみかた」をする人もいる。ある程度読み進んで主人公やその周囲の人物や世界観を把握すると、いきなり最終章に飛ぶ。先に結末を知ってしまうのだ。「ああ結末はこうなのね」と知った上でまた元の位置(読んでいるところ)に戻り、ゆるゆると読み進むという。その方が安心して読めるというのだ。なにがどう「安心」なのかいまひとつよくわからんのだが、一種の心配性かもしれない。

この友人女性は映画を観るときも似たような楽しみ方をする。前宣伝を観る。ネットで調べて「ネタばれあり」を読む。すでにその映画を観た友人知人の感想を聞く。そうしたリサーチを(本人が満足のいくまで)徹底的にやって(ある程度の)結末を知り、その安心感(笑)を得た上で映画館なりDVDなりで観るという。なかなか徹底している。まあだれに迷惑をかけるでもなし、それが御本人の「最上の楽しみ方」なんだからそれもありとは思うが。

私はどうか。
もちろん結末は楽しみではある。「最後はどうなるのだろう」とわくわくしながら読み進む。しかし「一刻も早く結末を知りたい」という「先急ぎタイプ」ではない。「まあこれほどの作家なのだから、結末もきっと満足のいくシーンが用意されているだろう」という全幅の信頼を置きつつ、しかし結末の出来不出来・満足不満足にはさほどこだわらない。途中経過が面白ければそれで十分と思っている。

ふと思ったのだが、これは登山にも共通しているように思う。
私は穂高が好きで、じつは今年の夏も久々で北穂(3106m)にトライするつもりでいるのだが、登頂できたかどうかという点にはさほどこだわらない。天候激変の高山であり、登頂目前での自分の体調や体力もどうなるかわかったものではない。なのでゆるゆると登る。途中の風景を楽しむ。見るからに「なにがなんでも登頂」といった雰囲気で、鬼のように険しい表情でどんどん先を急ぐ登山者が背後から来た場合は、即座に道を譲る。

【 ナオミ依存症 】

さて「痴人の愛」。
ここまで述べてきて「さて結末はどう述べる」といまさらながら悩んでいる。「あっと驚く結末はない」と、まずは伝えておきたい。
ブチ切れの河合はとうとうナオミを家から追い出す。彼は一人暮らしをとり戻す。つかのま、せいせいした気分でたんたんと毎日を送る。しかしやがて、あまりに平穏無事で単調な「ナオミなし生活」にイライラし始めるのだ。

このあたり、アルコール依存症患者に近い心理かもしれない。
ストレスやら人間関係やらなんやらかんやらで、知らず知らずのあいだに酒浸りの生活になっていく。「自分は不幸だ。酒なしではとても生きていけない」と自堕落で自己肯定的な考えに支配されていく。とうとう体をこわして入院。(他者によって)強制的に酒から切り離された生活となる。数週間、あるいは数ヶ月かかって更生し、社会復帰する。すっかり元通りの普通の生活が戻る。しかし心のどこかでは、普通の生活、健全な生活、波乱のない生活を嫌っている。もはやそこに安住できない。いったん日常生活から消えていた酒は、徐々にまた生活の中に戻ってくる。もはやそれを阻止できない。

アルコール依存症ならぬ「ナオミ依存症」の河合にとってナオミはまさに酒であり、しかも(始末の悪いことに)この酒は、追い出しても、遠ざけようとしても、自分の方から近づいて来る。酒にも色々な表現がある。美酒、悪酒。面白いことに「酒」はそのまま「女」に交換できる。美女。悪女。

「縁を切る」と決意して酒を外に放り出し自宅に引きこもっていても、魅惑的でセクシーなボトルに入った高級酒が勝手にドアを開けて自宅に侵入し、気がついたら自分の前にいた。そんな状況になったらどうだろうか。それでも飲まずにおれようか。私のような酒飲みは「そりゃ無理だ」というほかない。

 


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