エドガー・アラン・ポー【アッシャー家の崩壊】(6)

【 Netflix版・アッシャー家の崩壊 】

映画フリークの友人はNetflixでも様々な映画を楽しんでいる。彼は私と同じで、ホラー映画と聞けばその評判がB級であれC級であれ「とりあえず観たい」という男なのだが、もちろんそれは「がっかりすることを覚悟の上」だ。ただ面白いのは(ここで個性が出てくる)、私の場合は、がっかりしたりあきれたりした時点で「続けて観る価値なし」と判断した場合はさっさとコントローラーの「停止ボタン」を押してしまう。「やれやれひどい映画だった」とかつぶやきながら、席を立ってしまう。

友人はそうではない。我慢に我慢を重ねながらも最後まで絶対に観る。世の中には色々な忍耐があるものだが、こういう忍耐も珍しい。私には絶対にできない。
……で、我慢に我慢を重ねてエンドロールもきっちりと最後まで見届けた上で、その怒りをバネに「レビュー」で酷評する。
……そう。彼は映画のレビューが趣味なのだ。「レビューを書くためには、なにはともあれ最後までちゃんと観ておかねばならない」と自身に課しているのだ。2倍速3倍速の機能を使っていい加減な観かたをしたあげく、さも感動したような批評を書いている映画評論家がいると聞いたことがある。そんな評論家より、よほど立派な映画フリークだ。

その友人からメッセンジャーが来た。10月からNetflixで「アッシャー家の崩壊」が配信されているというのだ。
「……監督は?」
「マイク・フラナガン」
これを知った時点でなんとなく悪い予感が走った(笑)ので、(期待薄気分で)「観たのか? 原作には忠実か?」と聞いてみたのだが、果たして予感は的中した。モンスターも出るという。
「モンスターが?……やれやれ」
もうそれを聞いただけで、私の場合は「観る価値なし」だ。もちろん「アッシャー家の崩壊」原作でモンスターなど出ない。ポーがそんなものを書くはずがない。

友人は(どこまで観たのか知らないが)たぶんきっちりと最後まで見届けたのだろう。
「あくまでも原作に忠実に」という正しい姿勢でつくったメランコリーな映画「アッシャー家の崩壊」はないのだろうか。残念ながらないようだ。

【 奇怪な絵 】

さて本題。
部屋の遠くの方をゆっくりと横ぎり、あなた(語り手)の存在さえ気がついていない様子のまま、姿を消してしまったマデリン。

このシーン。劇的な出来事でもなんでもなく、ただアッシャーの妹がスッと現れて消えただけのシーンなのだが、私は妙に魅かれる。どんな服を着ていたのだろう。どんな髪型だったのだろう。残念ながらそうした描写は全くない。アッシャー登場の時には「蜘蛛の巣よりも柔かく細い髪の毛」などなどあれほど細かい描写をしておきながら「なんだよ妹はこれで終わりかよ」とちょっと不満を感じるほどのあっけない登場&退場だ。しかも「彼女の生きているうちに二度と見られぬだろう」なんだから、半分死んでいるような妹だ。これはもう幽霊に近い。

さっき私が彼女の姿をちらりと見たのがおそらく見おさめとなるだろう。少なくとも彼女の生きているうちに二度と見られぬだろう、ということを私は知った。その後四、五日間は、彼女の名をアッシャーも私も口にしなかった。そのあいだ私は友の憂鬱をやわらげようとする熱心な努力に忙しかった。私たちはともに画を描き本を読み、あるいは彼の奏する流れるように巧みなギターの奇怪な即興曲を夢み心地で聞いた。(原作)

この館の主アッシャーもまた(妹同様に)半ば死にかけているような生気のない男だが、なかなかの多芸人らしい。絵を描くし、ギターも演奏する。しかも詩人でもある。その詩については次回で取り上げるとして、彼はどんな絵を描いたのか。

それは小さな画で、低い壁のある、平坦な、白い、切れ目もなければなんの装飾もない、非常に長い矩形の窖または地下道の内部をあらわしていた。その構図のある付随的な諸点は、この洞穴が地面からよほど深いところにあるという感じをよく伝えている。この広い場所のどの部分にも出口がなく、篝火やその他の人工的な光源も見えないが、しかも強烈な光線があまねく満ちあふれて、全体がもの凄い不可解な光輝のなかにひたされているのであった。(原作)

私は絵を描く男だが、この奇怪な絵の説明はなかなか具体的な絵となって頭に浮かんでこない。とりわけ不可解なのは「その構図のある付随的な諸点は、この洞穴が地面からよほど深いところにあるという感じをよく伝えている」の部分だ。
「ある付随的な諸点」?
なんでそれが「この洞穴が地面からよほど深いところにあるという感じをよく伝えている」に結びつくのだろう。奇怪な説明というほかない。

仮に私がこの説明を頼りに、アッシャーが描いた小さな絵を再現するとしよう。アッシャーが使用した画材はなにか?……原作にその説明はないが、おそらく油彩だろう。だとすればイーゼルを立ててキャンバスに描いたのだろう。「イーゼルにキャンバス」というとかなり大きな絵を連想する人が多いと思うのだが、実際にはとても小さなかわいいサイズのキャンバスもある。たとえば「FO」のサイズは「18cm/14cm」である。

さてアッシャーが描いた絵は、一種の風景画といえる。なんとも奇怪で憂鬱な風景だ。白く低い壁が延々と続く地下道。壁はぬめっとした白い漆喰(しっくい)だろうか。どこにも出口はない。最も奇妙なのは「光源のない強烈な光」だ。いったいどこから放射された光なのだろう。壁全体が光を放射しているのだろうか。そして「深い地下」。これはもうどう表現したらいいのか、まったくわからない。見当もつかない。

この絵は「まぶしい(周囲を落ち着いて観察できない)/白い(圧迫感に満ちている)/出口がない(逃げ出せない)/どこまで続いているのかわからない(全体を把握できない)/地下の深いところらしい(まさに地中に埋められた棺桶空間)」……というわけで、これはもう「拷問空間」というほかない。発狂一歩手前のような精神の異常を感じる絵だ。

【 つづく 】


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