エドガー・アラン・ポー【早すぎた埋葬】(6)

【 カルカッタの黒い穴事件 】

このところ魔談は「早すぎた埋葬」冒頭で、ポーが例にあげた5つの戦慄記事を順に詳しく調べている。

(1)ベレジナ河越え ▶︎ 戦争
(2)リスボンの地震 ▶︎ 天災
(3)ロンドンの大疫病 ▶︎ 疫病
(4)セント・バーソロミューの虐殺 ▶︎ 虐殺
(5)カルカッタ牢獄における123人の俘虜の窒息死 ▶︎ 虐殺

前回は「セント・バーソロミューの虐殺」を語った。
今回は「カルカッタ牢獄における123人の捕虜の窒息死」を語りたい。
これは1756年にカルカッタで発生した虐殺事件である。誰が誰を虐殺したのか。ベンガル太守(上の写真)の兵士が、英国兵捕虜を虐殺したのだ。経過を見て行こう。

(1)1756年当時、英国はインドを領有。治安維持のための軍隊を派遣していた。
(2)ベンガル太守はフランスの支援を受けて英国軍に反乱。
・・・英国の総督は逃亡。副司令官は降伏。
(3)英国兵146人が捕虜となり、
・・・カルカッタの要塞に設けられていた狭い営倉に押しこめられた。
(4)この営倉は以前から「カルカッタの黒い穴」と呼ばれていた。
・・・いわくつきの牢獄だったのだ。
・・・室内は5m四方ほどの広さで、頑丈な格子のついた小さな窓が2つあるだけだった。
(5)その夜はことのほか蒸し暑かった。
・・・閉じこめられた146人は、座ることさえできないぎゅうぎゅう詰めだった。
(6)捕虜たちは番兵に苦痛を訴えたが、
・・・番兵はすでに眠っている太守を起こすことを恐れ、取りあわなかった。
(7)飢えと脱水の極限状態に置かれた捕虜たちは、次第に絶望感に囚われ始めた。
・・・発狂する捕虜が出てきた。死者も増え続けた。
(8)翌朝の6時に太守はこの惨状を知り、すぐに扉を開けさせた。
(9)捕虜146人のうち、生き残っていたのは23人だった。
(10)この事件を知った英国民は憤激した。政府に復讐を要求した。

この通称「カルカッタの黒い穴事件」、アウシュビッツ強制収容所を連想する人もいるかもしれない。私はこの事件を調べながら映画「ディア・ハンター」を思った。
「ディア・ハンター」はベトナム戦争の映画だ。時代も場所も違うが、この映画でもアメリカ兵を捕虜にしたベトナム兵たちが捕虜に対し虐待に近い監禁をする。
人間は(特に男は)他の人間に対しその生死を左右できるほどの圧倒的優位に立った時、残虐性がムラムラと心のダークサイドから浮上して来るのだろうか。1人を殺しても100人を虐殺しても平然としていられるのだろうか。かくして英国民衆は声高に復讐を叫び、インド領有をめぐる泥沼の復讐連鎖が始まるのである。

イスラエルのネタニヤフ首相はその演説の中で「ホロコースト」をたびたび持ち出すという。人類の長い歴史の中でホロコースト(ユダヤ人に対する国家的組織的な虐殺)を何度も受け続けてきた自分たちの民族は、その記憶から永遠に脱却することができず、その記憶と戦うためにいま戦っているのだと。「虐殺から逃れるために虐殺をしている」というのだろうか。

いま我々が生きている時代は、後世、100年後200年後にはどのように評価されるのだろうか。復讐連鎖時代と言われるのかもしれない。

【 つづく 】


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