【 魔の世界拡散 】
AK(カラシニコフ突撃銃)を調べていたら、こんな言葉があった。
「9歳の少年でさえ、AKを手にしたら、もう一度使わずにはいられない。あの銃は人を戦場に引きづりこむんだ」
人を戦場に引きづりこむ銃。まさに悪魔がとりついた銃だ。
そういえば日本刀にも、いわゆる「妖刀」という奇怪な言葉がある。妖気を帯びてしまった日本刀のことだ。妖気を帯びるとどうなるのか。やたらに人を斬りたくなるのだ。優れた武器というものは、他の追随を許さない殺傷威力を発揮したとき、古今東西を問わず、それを手にした者を虜にしてしまう魔力を発揮するのかもしれない。
さて上記の言葉にはもうひとつ、驚きの言葉が含まれている。9歳の少年!
これはいったいどういうことか。ロシアで生まれた突撃銃がなぜ9歳の少年を虜にしてしまうのか。じつはこの少年はロシア人ではない。アフリカの内戦に巻きこまれてしまった現地住人の子なのだ。
なぜロシアで生まれたAKが、海を越えたアフリカの内戦で少年を虜にしてしまうのか。これには歴史的・政治的な背景が絡んでいる。
いま一度、AKの世界的拡散の経過を見てみよう。
(1)1946:AK、ソ連で量産決定。
(2)1953:スターリンはAKを高く評価。その設計が外部に漏れないように厳命した。
(3)スターリンの死後、フルシチョフは東欧における共産主義国支援の一手段として、AKを大量提供。また彼はその時点で友好関係にあった中国に(アメリカ牽制の目的で)「中国版AK」生産を許可。
(4)1965 – 1975:ベトナム戦争。ソ連の支援を受けた「南ベトナム解放民族戦線」がAKを主力銃として(ジャングルの戦いで)アメリカ兵を圧倒。
(5)1991:ソ連崩壊。大量に保管されていたAKに武器商人(ロシア人)が目をつけた。安価で買い上げた。
(6)「アメリカ vs ソ連」の代理戦争というべきアフリカ内戦がソ連崩壊により混乱。
(7)アフリカで武器商人が暗躍。敵対する双方にAKを売りつけた。
非常にざっくりとではあるが、これがAKのたどってきた「魔の世界拡散」である。この中で特にAKが「悪魔の銃」として戦場で恐れられたのがベトナム戦争だった。「カラシニコフ(1)」でも触れたが、圧倒的な軍事力でベトナムを制圧できると信じて10年間も戦ったアメリカはAKにコテンパンにやられたのだ。アメリカ兵士がこんなことを語っている。
「信じられないだろうが、我々の大半が何に殺されたか知ってるか? 仲間はM16の故障を直そうとしている間に、AKに撃たれて死んでいったんだ。M16なんかクソ食らえだ!」
M16は当時のアメリカがAK打倒に燃えて開発した最先端の突撃銃である。ハイテクを駆使した素材で軽量化を図り、飛距離も伸ばした。重量はAKよりも1kgほど軽かった(AK:4.5kg/M16:3.5kg)。飛距離はAKよりも100mも長かった(AK:400m/M16:500m)。
これらの数値だけを見れば、どんな軍人だって「M16の勝ち!」と思うに違いない。
しかし実際は逆だった。ジャングルでの戦闘でM16は次々に「弾詰まり」を起こした。河川や沼の泥や小石が銃口に詰まってしまい、発砲できなくなってしまったのだ。最前線で撃てなくなってはどうしようもない。しかも敵のAKは故障知らずでガンガン撃ってくる。アメリカ兵たちの気分は最悪だっただろう。
94歳まで生きたカラシニコフ(1919 – 2013)の映像は、数多く残されている。風貌としては、名古屋近郊に数多く存在する「自動車部品の下請け製造会社社長」といった感じだ。会社のユニフォームとなっている作業着がとてもよく似合っているような人だ。とても「悪魔の銃の父」と言われるような風貌の人ではない。
21歳で戦車兵として出撃し、その戦線でナチスドイツが誇る(当時最先端の)軽量突撃銃の威力を数多く見た瞬間から、彼の仲間がバタバタと死んでいった瞬間から、彼の人生は変わったのだ。これよりも優れた突撃銃がなければ、祖国はアウトだと思ったのだ。そしてAKが生まれた。その優れた(農民的)設計方針により、無敵の突撃銃となった。ベトナム戦争ではハイテク・高価なM16を圧倒し、ローテク・安価なAKの勝利となった。
その後もAKの名声は世界中に届き、あらゆる戦闘集団がこの突撃銃を手に入れようとした。
ある雑誌社が(胸に勲章を山ほどつけた軍服姿の)カラシニコフに対し、なかなかエグイ質問をした。
「あなたがつくった銃で撃たれて死んだ人の家族に対し、なにか言うことはありますか?」
彼は渋面で沈黙してしまったが、しばらくして言った。
「なにが言いたい?……武器に責任はない。使った人間が悪いのだ」
【 完 】