【 しきたり 】
かずくんはいきなりゴロンと腹ばいになった。目の前にお坊さんがいないことと、見慣れた狭い休憩部屋にきたことで、やっと緊張から解放されたのだろう。赤い頬を畳にくっつけたままの状態で「はぁーっ」と長いため息をついた。私は思わず笑った。
「なんでそこまで緊張せなあかんの?」
「わからへん」と彼は頬を畳にくっつけたまま言った。
「……気がついたら、死ぬほど緊張してるねん」
「ふーん」
「れいくんは、緊張せんのか?」
「来たときは緊張したな。いまは普通やな」
「すごいな。おれよりお坊さまに向いてるかもしれんな」
ふと思い出した、という感じで彼は上体を起こしてあぐらをかいた。
「そや、着いたらすぐに、ここのしきたりをれいくんにちゃんと教えなあかんぞ、と父さんに言われてきたんや」
「しきたり?」
聞き慣れない言葉だった。初めて耳にした時はなんのことやらわからなかったが、彼の説明を聞いているうちに、「ははあ、守らなあかんきまりみたいなもんやな」とすぐにわかった。彼のいう「しきたり」はじつに細々としており、全部で10項目ほどあったように思う。……が、なにしろ60年前のことであり、そのあらかたは忘れてしまった。しかし実際にそこでの生活できちんと守っていた(守らされていた)ことはよく覚えている。
【 お坊さまに話しかけてはいけない 】
これは要するに、ここで暮らすお坊さんたちはその24時間が修行中であり、その修行の邪魔をしてはならんということだろう。しかし実際は私の方から話しかけることはなくとも、若いお坊さんで私にしばしば話しかけてくる人がいた。きっと子ども好きの人だったのだろう。
【 食事中も話をしてはいけない 】
これも要するに「食事もまた修行」ということなのだろう。なんとも味気ない食事風景であり、8歳の少年の目には「まるで刑務所やな」と思った記憶がある。もちろん8歳で刑務所の食事風景など知るはずはないのだが、じつは実家の近所に住む老人(ヤクザから足を洗った朝鮮人)から刑務所生活の話を聞いたことがあった。脱線の上に無軌道暴走をしてしまうので、ここではその話は割愛する(いずれゆるりと語りたい)が、私は両親から固く禁じられているにもかかわらず、時々その老人の家に(こっそりと)遊びに行っていた。彼の話が面白かったからだ。
【 特になにか仕事を言いつけられていない時は、庭の掃除をすること 】
これはかずくん的には「適当にサボってたらええねん」ということらしかった。彼はアリを見つけてそれを視線で追いかけるのが好きだった。私はバッタやカマキリやアゲハチョウを見つけて(捕まえてはいけないのが残念だったが)喜んでいた。
しばらくして先ほどの若い僧が我々の部屋に来た。彼は我々の前に音もなく座った。例によって着座してしばらくはなにも言わなかった。対面での沈黙は、たとえそれが数秒間でもあっても、人に無言の重圧を与えることがある。若い僧がそれを計算していたとは思えないが、私はすぐ脇のかずくんの緊張ボルテージが一気に上昇するのをありありと感じていた。
若い僧は我々の服装についてはなにも言わなかった。彼はかずくんに庭掃除を命じた。その後で正午になると昼食なのだが、その用意を手伝ってほしいとのことだった。再び呼びに来るまで庭の掃除をしておれ、ということなのだろう。
かずくんは「庭掃除」と聞いて喜んだ。彼にとっては休憩時間なのだろう。息を止めるようにして僧が行ってしまうのをじっと待ち、潜んでいた水底からようやく水上に頭を出したようなため息をついた。その後にようやく笑顔をとり戻し、私に言った。
「ええとこがあるねん。案内するわ」
【 ええとこ 】
なにが「ええとこ」なのかと言うと、要するに「どこからも誰からも見えない場所」ということらしかった。
かずくんは庭掃除の道具がしまってある小屋に私を連れて行った。その小屋の裏が、彼のいう「ええとこ」らしかった。隠れ家ならぬ「隠れスポット」といったところだろうか。
彼はそこまで私を連れて行くと、小屋から青いビニールシートを出し、小屋の裏に敷いた。電気が切れた人形みたいにドサッと座りこみ、小屋の壁にもたれてつぶやくように言った。
「ああー、早くおうちに帰りたい」
私は笑った。まだ一泊さえしていないというのに、もう帰りたい?……ちょっと意外にも思った。
「そんなにここがいやなん?」
「いやや。こんなとこ、どこがええねん?」
私は再び笑った。
【 つづく 】