【 食欲、睡眠欲、財欲、名誉欲、性欲 】
叡山に10日間ぶちこまれた8歳当時、私はストイックという言葉はまだ知らなかった。「がまん」は知っていた。
「この山の坊主はな、欲をがまんすることで自分に集中するのや」
くまさんがそう話してくれたことがあった。彼は「まだようわからんと思うけどな」と言いつつ五欲について語ってくれた。
「人間にはな、5つの欲があってな」
それが食欲、睡眠欲、財欲、名誉欲、性欲だった。
かずくんの肩をポンとたたいて「この子は食欲最優先や」
「そりゃそうや」
かずくんは珍しく意見を述べた。
「人間はおいしいものを食べてる時が一番幸せや」
3人とも笑った。
「そういう人には、ここは地獄やな」とくまさん。かずくんは黙って頷いた。
「……で、人間はおいしいものを腹一杯食べて、満足して、ゴロンと横になって、そのまま寝てしまいたいと思う。それが食欲と睡眠欲や」
「それがなんであかんの?」
私の質問にくまさんは笑った。
「普通の人はそれでええのや。しかし修行僧はそれではあかん。修行僧というのは「欲を断つ」というてな、「これは人間の欲や」と思ったら、それを自分から遠ざけるように努力せんとあかん」
「ああそれで……」と私はそれなりに納得した。それで食事はあんなもんでみんながまんしてるんやな。
「……でも寝るのがなんであかんの」
「あかんことはない」とくまさんは言った。「寝ないと人間は死んでしまう。ただ好きな時にゴロンと横になってそのまま寝てしまう、なんてのはあかん。ここは夜が明けるころにサッと起きる。お日さんが沈んでお勤めが終わったら、サッと寝る。規則正しく、最低限の睡眠でおさえることが修行や。食事もそうや。規則正しく、最低限の食事でおさえるのや」
「ふーん」
「財欲もそうや。ここではお金をもらうことも、使うこともない。ここはお金のない世界や。これは結構、楽といえば楽や」
「なんで楽なん?」
「普通の生活を考えてみい。お金がほしいからみんな働く。自分の時間を売って、お金にかえる。そのお金が少ないと、生活は苦しくなる。苦しくなると困るから、しかたなくみんな働く」
これも納得できる話だった。大人になったら働く。働くのは楽しいことではない。行きたくない日でも行かねばならない。それは8歳の少年でもなんとなく理解していた。
「4番目の名誉欲やけどな」
くまさんはニヤッと渡って声を少し落とした。
「じつはこれは、修行僧でもなかなか捨てられん」
「なんで?」
「大きな声では言えへんけどな……あの人は叡山で修行した偉いお坊主さんや、なんて尊敬してもらいたくてここで修行してる坊主がほとんどや。これは名誉欲やな」
私は思わずかずくんを見た。「ああそういうことなのか」と理解したのだ。
「でもそれがなんであかんの。立派なお坊さんになりたいと思うのは、ええことやろ?」
「そうや、そのとおり」
くまさんは笑った。
「……でもな、修行は立派な坊主になることやない。ほんまの修行はな、自分のためにやるのや」
「……で、最後の性欲やけどな」
くまさんはニヤッと笑った。
「これはまだ、きみらにはわからん」
「いつになったらわかるのん?」
「せやな……まあ、中学生ぐらいになったらじわじわとわかるわな」
「なんで中学生なん?」
「初恋や」
くまさんは少し遠くを見るような仕草をした。なにか思い出すことがあったのかもしれない。
「ここにはな、女の人がひとりもおらんやろ」
私は黙ってうなずいた。それなりに慣れていたが、「変なところやな」とは思っていた。
「女の人は、修行の邪魔なん?」
「……まあ、そういうことや。大きな声では言えへんけどな」
くまさんは軽く笑って、戻っていった。
【 つづく 】