【 魔談501 】モンマルトルの画家たち(2)

【 格安ツアー 】

旅行代理店は小規模の店だった。街のどこにでもあるような「地元密着型・小規模不動産店」みたいな感じ。ドアも自動開閉式ではなく木のドアで、私はノブを回して中に入った。

じつはその時点でフランス渡航を決意したわけではなかった。つい先程まで会っていた友人のやつれた姿がまだ執拗に脳裏をちらついていた。心配顔の奥さんの表情とやつれた友人のパジャマ姿が交互に浮かんでは消え、頭から離れなかった。大きくなり始めていた奥さんのお腹さえ出てきた。友人夫婦の不安とかすかな期待、そのような中でも生命を宿した子どもはちゃんと生まれてくる。友人は立ち直れるだろうか。奥さんには笑顔が戻るだろうか。生まれてくる子は幸福になれるだろうか。

私は会話を欲していた。いま出てきた入院病棟の静寂世界とは全く無縁の、未来のある明るい会話がしたかった。
「旅行代理店なら……」と私は期待した。もしかしたら、受付にいて私の話し相手になってくれるのは若い女性かもしれない。職場として旅行代理店を選ぶような女性なら当然ながら旅行好きで、(それが業務用の笑顔であったとしても)きっと爽やかな笑顔で「パリ10日間・15万円」の説明をしてくれるだろう。想像はルーブル美術館に飛び、(申し込みをするかどうかはわからないが)きっと明るい気分になれるだろう。
しかしガランとした室内にいたのは中年の男性ひとりだった。

失望したものの、男性の穏やかな笑顔を見て、私の沈んだ気分はいくらか晴れた。
「表のチラシを見た者ですが……」と私は言った。
「ああ、パリ10日間で15万円ですね」
彼はカウンターの端に私を案内した。
「このツアーは絶対に安いですよ」
「なんとなくわかります。友人はパリ1週間で20万円と言ってました」
「海外旅行は初めてですか?」
「そうです」

彼は店長だった。店長はパスポート申請の仕方を丁寧に教えてくれた。
「じつはこのツアーは特別なんです」
この格安ツアー実現には、ちょっとした仕掛けがあるらしかった。彼の娘はパリ郊外に住んでいた。フランス人の男と同棲していた。その娘がパリ市内の小規模ホテルを調べて交渉し、店長にその情報を送ってくるというのだ。
「なるほど」
格安の仕掛けはわかったが、ツアーなら出発日も決まっているはずだ。店長が見せてくれた出発日は4コースだった。私は一番遅い出発日に目をつけた。ざっと1ヶ月後だった。
「この、12月1日出発のコースですが、席は空いてますか?」
「空いてますとも」店長は笑った。
「あなた以外は、ふたりだけです」
「ふたり!」
私にはちょっと意外だった。ツアーなんだから10人ぐらいは同行するのかと思っていたのだ。
「3人でもツアーは成立するのですか?」
「しますよ」
店長は手元の資料を見ていた。
「しかもあなた以外のおふたりは高齢の夫婦ですね。旦那さんはかなりの御高齢だ。キャンセルの可能性もありますね」
「キャンセル! もしこの夫婦がキャンセルしたら、どうなるのです?」
「あなたひとりのツアーということになりますね」

ひとりだけのツアー!
そんなツアーは聞いたこともなかったが、店長は平然と笑っていた。
「飛行機はビジネスクラスでしょうね?」
「そうです」
「直行便ですか?」
「いえ……さすがにこの金額では、それはちょっと無理ですね」
「なるほど。トランジットですね」
「まあそうなんですが、正確に言えばトランスファーです」
「トランスファー? 聞いたことがない言葉です」
「このツアーでは、飛行機はベルギーに着陸するんです。ブリュッセル空港です。そこで給油して、同じ飛行機でパリに向かえばトランジットです。同じ飛行機ですので、飛行機を乗り換えることはないです。トランスファーというのは、ブリュッセル空港で別の飛行機に乗り換えることです」
「なるほど。ちょっと面倒くさい感じですが、ガイドさんは同行してくれるのでしょうね」
「いえ、そこなんですが……」
店長はちょっと頭を下げた。
「なにしろこの金額ですので、ガイドはつきません」
「ガイドはつかない! ブリュッセル空港では自分で判断して乗り換えの便を探せというのですか?」
「そういうことになります。しかし難しいことではないですよ。カウンターに行ってトランスファーのチケットを見せたら、すぐに教えてくれますよ」
「うーん。そうかもしれないですが……」
説明を聞けば聞くほど不安が募る海外旅行なんてのは、ちょっと勘弁してほしかった。
「ちょっとよく考えてみます」
私はその店を出た。

【 つづく 】


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