アン・ジュングン(安重根)は、韓国の歴史上の2大英雄の一人だ。1909年にハルビン駅で元老伊藤博文を暗殺した人物である。日本は当時韓国の植民地化を進めており(1910年に韓国併合が行われ完全に植民地となった)、韓国人から見たら伊藤は憎むべき悪の権化であり、アンはヒーローだ。日本人から見たらテロリストだが。
ハルビンは中国黒龍省にあるが(当時は清国)、ロシア東清鉄道の附属地であった。この鉄道はシベリア鉄道と連結し、元韓国統監の伊藤はロシアの大蔵大臣との会合のために、旅順から列車で向かっていたのである。

「ハルビン」監督:ウ・ミンホ 出演:ヒョンビン パク・ジョンミン チョ・ウジン他
さて、ご紹介が遅くなったが、7月公開の映画「ハルビン」だ。かなりな省略があり、全くの創作部分も多い。アンの人物や思想などが描かれているだろうと思うと、肩透かしにあう映画だ。しかし、撮影が見事だし、フイルム・ノアールみたいな抑制のきいた演出と、それなりに優れたアクションシーンがあり、一見に値する。
韓国で彼を知らぬ人はいない訳で、彼の全体像を描くというより、ヒョンビンを主演にしたスタア娯楽映画と割り切って撮ろうとしたのではないか。あるいは、日本を含めた海外に売ろうという戦略で作られた作品ではないか。
省略というのは、アン・ジュングンの人間的な側面が描かれるわけではない。獄中で、自分は正義の闘いを行った、無実であると主張し、「東洋平和論」なども発表したが、裁判の様子は全く描かれていない。韓国映画お得意の、妻や子供の愁嘆場も一切ない。処刑のシーンもあっけなく、シンボリックな描写だった。
それに、アン・ジュングンは、伊藤統監を暗殺したから一躍有名になったのであって、映画に描かれたように、日本軍にマークされ、日本軍が伊藤の暗殺を阻止する活動を行っていたというのは全くのフィクションだ(直木賞作家佐木隆三のルポ「伊藤博文と安重根」を読むといい)。
110年以上前に遡り日本を糾弾するという姿勢がある訳ではない。伊藤をリリー・フランキーが演じたことで存在感が出たが、特別、残酷な人間と言う風には描かれてなかった(2017年「金子文子と朴烈(パク・ヨル)」に於いて登場する、日本側の一番偉い奴、水野錬太郎(当時の内務大臣)のヒステリックな人物像と比べてみればいい)。日本人の持つ残虐さ、血も涙もない冷血さは、韓国人に助けられたのに「恩をあだで返す」森という軍人に背負ってもらっているのだ(ひどい奴だからこそ、密偵をやっていた朝鮮人同志が、最後に彼に復讐することで、韓国人はカタルシスが得られるのだろう)。
つまりはこの映画、思想的・政治的なものは殆んどすっ飛ばした、伊藤が列車を乗り換える時、彼を暗殺するアン・ジュングンたちと日本軍の攻防に焦点を当てたアクション映画であり、だからこそタイトルが「ハルビン」なのだ。「アン・ジュングン」ではないのだ。
撮影も演出もいいと思うが、アンが伊藤を撃った後、カメラが上から捉えるショットだった。あそこの演出はやや平凡だと思う。これは心残りだった。
さて、アン・ジュングンに関しては、ソウル市民の憩いの場である南山公園のふもとに立派な記念館がある。ここでは彼の生涯や思想を知ることができ、遺墨なども展示されている。両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級の出身で、学もあった。家族と離れて、独立を目指す義勇軍の参謀であった。
もう25年前だが、この安重根記念館の課長さん宅に元勤務先の高3の生徒が、高麗大の語学コースに通いつつ1か月ホームステイさせていただいたことがある。その前後の経緯は省くが有難いものである。彼は、その後、李氏朝鮮の経済が専門の研究者となった。この4月よりは東大の准教授である。
先日の朝日新聞の日韓国民の意識調査の結果によると、日本に親しみを持つ韓国人は18パーセントしかいない(10年前はわずか1パーセント!)。そんな中で日韓親善のために、こういう善意の行為をやってくださる方がいるのである。植民地支配を受けた側がこんなに親切に受け入れてくれるのだから、我々は、韓国人(いや、あらゆる外国人)に親切かつ寛容な姿勢で接してあげたいと思う。それがささやかな「反トランプ思想」の実践である。
因みに、もう一人の英雄は、16世紀末、朝鮮侵略を目指した豊臣秀吉を2度撃ち破ったイ・スンシン(李舜臣)。ソウルの目抜き通り世宗通りの真ん中に大きな銅像があり、侵略は許さんと日本の方を向いている。
(by 新村豊三)