連休中に昭和の東京の映画館について書かれた面白い本『昭和の東京 映画は名画座』(青木圭一郎著 ワイズ出版)を読んだ。
この本で初めて知ったのだが、昭和34年11月には都内に何と469カ所の映画館があった! 現在は62館ほどだ(シネコンがあるので、スクリーンは117)。
80年代前半に住んでいた東京の北のはずれの板橋区志村にさえ(もう当時は映画館は一軒もなかったが)3つも劇場があったことも知った。これは、都電の終点が志村でありここら辺一帯が繁華街として賑わっていたから。また、都の南にある蒲田には20館も映画館が存在していて(現在は2館)、これにも驚かされた。
ということで、今回はこの本を読んで色々と思い出す懐かしの名画座についての話だ。
小さいものほど愛着がある。高田馬場から早稲田大学のほうに向かって10分程歩くと、通りに面したビルの2階に、客席わずか48席の「ACTミニシアター」という古い名画を上映するスペースがあった。靴を脱いで部屋に入るのも面白かったが、何しろ質の高い名画を3本、4本上映してくれるのが有難かった。
82年だったか、イタリアの名監督フェリーニの名作を3本一気に見て圧倒されたことも忘れ難いが(確か、「カビリアの夜」「甘い生活」「道」)、その日、ゲストのある映画評論家が映画の上映後、解説と称してくだけた映画の話をしてくれたことを懐かしく思い出す。
何しろこの人は参加者に缶ビールをふるまって一緒に飲みながら映画人の話をするのだ。「大島渚は文章が下手なんです」とかズケズケ言う。また、「僕は岩下志麻と知り合いでして。。」とやるのだが少しもイヤミではなかった。きっと照れを隠すためにビールを飲んでやっていたのだと思う。
高尚なことを垂れるよりも、ミーハーな話に徹したのがよかった。後で知ったが彼は田山力哉という人で、いい仕事を続ける評論家だった。10年後位に連載されたキネ旬のコラムも歯に衣着せぬ映画界への直言で人気があった。残念ながら、酒を飲みすぎて(?)67歳で他界された。映画評論家はなべて長生きの方が多いので、この人の早世は惜しまれる。
このシアターは確か手書きの小さな文字で一杯書き込まれた映画のスケジュール表を配っていた。そういう手作り感のあるアットホームな映画館だった。
そうそう、ここで初めて見て凄いと思ったのは溝口健二監督の「西鶴一代女」だ。50年代日本映画の黄金期の傑作の一本だ。上映してもらったのを感謝したい。そうか、大学に近いこともありここはフイルムセンターの民間版、取りすましていない庶民版だったのだ。
有名なところで忘れられないのは邦画二本立ての銀座の並木座。ここもわずか90席。「麦秋」「浮雲」「キューポラのある街」など名作を何本も見た。スクリーンが観客席に近くて幕面に小さな穴が空いていたのが見えた。後ろにスピーカーが置いてあって音がよく聞こえるようにという工夫だったとの由。
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さて、映画館を舞台にした好きな邦画を紹介したい。映画が娯楽の王様だった60年代、「みなと劇場」という名の下関の映画館で働く映画好きの若者とその家族を描く「カーテンコール」という映画だ。
若者が上映の幕間に座頭市など映画のヒーローの物まね等をして芸人の様に人気を博するも映画凋落の流れに勝てず映画館を解雇され、妻が亡くなった後に一人娘を置いて下関を離れ韓国に帰ってしまう。彼は在日だったのだ。
映画は30数年後の現在、娘が父親と再会できるかという展開となる。当時の映画館の雰囲気がよく再現されているが、映画館とそこで働く人々への愛情と哀惜の念が込められている。
閉館の日まで映画館の売店に40年程勤務する従業員役の藤村志保を初めとして、伊藤歩、奥貫薫、鶴田真由ら女優さんが全て良いのにも感心する。
(by 新村豊三)