韓国の名優アン・ソンギ氏が今年1月5日、享年74歳で亡くなった。韓国では「国民俳優」と呼ばれていた。長いキャリアの中、激動した韓国の時代時代を表す人物を演じてきたし、穏やかで温かい人柄であったからだ。
私とても、兄のような人一倍の親近感を抱いていた。同じアジア、年も二つ違い。20年前ソウルの映画上映会で直接話したこともある。紳士としての人柄に尊敬もしていた。
韓国映画との関りを綴りたい。1994年に初めての韓国映画「風の丘を越えて」を見て以来、韓国映画の面白さを発見し、一本一本、隣の国にこんな面白い映画があるのかと夢中で見ていた頃、いつのまにか彼の名前を覚えてしまった。
特に感銘を受けた映画は「風吹く良き日」(1980)「鯨とり コレサニャン」(1984)「神様、こんにちは」(1987)であり、それは、1980年から始まった韓国ニューシネマの旗手たち(監督イ・ジャンホ、ぺ・チャンホ)の代表作であった。つまり、彼こそが新しい韓国映画の主役を担い、新生韓国映画の顔となったのだ。

「風吹く良き日」監督:イ・ジャンホ 出演:アン・ソンギ イ・ヨンホ キム・ソンチャン他
1998年頃、赤坂のあるホールで上映された怪物監督キム・ギヨンの「下女」(1960)の上映で、何と子役でこの映画に出ていることも知った。下女によって家族が破滅に追い込まれる薄気味悪い怪奇映画であり(歴代韓国映画のトップ3によく選ばれる)ネズミ捕りの薬を飲んで死んでしまう役だった。
1996年には「祝祭」でイム・ゴンテック監督と共に来日している。「太白山脈」(1994)も上映され、アン氏とイム監督とで優れた映画を撮っていることを知るようになっていた。
2005年に私は渡韓して、一年余り、社会人大学院に通いつつ、フィルムセンターで過去の韓国映画を見てゆく中、名作とされるイム・ゴンテックの「曼荼羅」(1981)など彼の優れた主演作を見る恩恵に浴した。
「曼荼羅」を見た時の感動が忘れられない。山奥の寺で厳しい修業を積む僧侶の話である。雪の風景など撮影も素晴らしかったが、精神性の高さが滲み出ていた。アン氏が坊主頭にして修業を続ける。痩せて、やや眼がぎょろりとし、清貧の生活を送る。これはピッタリの役柄だった。
書ききれないが、アン氏は実にいろんな役をこなしたのである。そしてそこには、常に人間味があったのだ。紳士的、穏やかで懐かしいお兄さんというイメージがある。彼は、マネージャー、付き人がいないそうだ。偉くなっても、人を使わず、自分の事は自分でこなす人だったのだ。
冒頭にも触れたが、丁度20年前になるがソウル滞在中の忘れられない出来事がある。アート系の劇場で「風吹く良き日」の上映が行われた。映画は地方からソウルに出て来た若者3人が底辺の暮らしをしながら明日を夢見て生きるストーリー。アン氏と、主役3人の一人を演じたイ・ジャンホ監督の弟さんイ・ヨンホさんがゲストとして見えた。
ヨンホさんは失明なさっていた。映画終了後、僕がアン氏とヨンホさんに「これまで見た韓国映画の中で一番好きな映画です」と伝え、サインを求めた時、彼はすっとヨンホさんの手を取ってサインするのを手伝ってくださった。自然でさりげない行為だった。暖かい人だと思った。その時撮った写真とサインは私の一番の宝物だ。今も、自分の部屋に飾ってある。
また、この年、アメリカ映画の興行の力が強すぎて、韓国映画を守るためアメリカ映画の輸入を押さえようとする運動(「クオーター制度」と呼ばれた)が起きたが、アン氏は一人、厳冬のソウルの街角に立ち、ソウル市民にその大事さを訴えたということもあった。
生まれたのは1952年1月1日。民族を分断した激しい朝鮮戦争が続いていた頃だ。ソウルから避難する列車の中で生まれたと聞いている。60年代、韓国は世界の最貧困国のひとつだった。大人になって、軍事政権が続いたり、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長があったり、民主化もあった。彼はその激動の時代を生き抜いて、自らは映画の分野で韓国の地位を押し上げた。彼は韓国が富んでも、国が貧しかった、やるせなくせつなかった時代を終生忘れなかったのではないか。きっと華美な生活とは無縁だったろう。豊かにはなったが、分断が訪れてしまった韓国の現状を憂えている人ではなかったろうか。
ともかく、安らかにお眠りください。韓国映画に眼を開かせ、韓国を知り、体験させ、僕の人生を豊かにしてくれたのはアン・ソンギさんだったのです。合掌。
(by 新村豊三)