家系図調べと祖霊崇拝と永遠の生命と(5)

少々、想像力を逞しくしてみたい。

ヒトは、他の種と比べて抜きん出て認知能力を発達させた動物である。そしておそらくは、自分の生前にも世界(宇宙といってもよい)が存在し、自分の死後にも世界が存在することを知っている、唯一の種であろう。
他の動物達は、目の前の天敵におびえたり、今ここでの仲間の不在に不安になることはあっても、自分の死後のことを心配したり、自分が生まれる前の先祖や世界について考えることは無いであろう。

考えてみれば、自分の生まれる前や死んだ後のことを考えられるというのは、恐ろしいことである。
それは、「私の不在」を考えることである。
数学の教科書には、「0」の発見が歴史上の大発見であると書いてあるが、「私のいない世界」の発見と言うのは、「0」の発見以上の人類の大発見だったのではないか。
ただし、その時期は、有史以前(文字の発明以前)のことだったのではないか。
そして、「私のいない世界」を「私」の心に納めるために、宗教が必要なのではないだろうか。

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世界に比べて、「私」個人の一生はあまりに短い。このことを知っているからこそ、古代から、不老長寿の法というものが探求されてきたのであろう。
残念ながら、不老長寿の秘法は未だに見つかっていないが、祖霊崇拝によって、「私」と先祖、子孫を同一視し、一体感を感じることによって、「私」の存在を、主観的には時間軸上で拡大することが出来るのではないだろうか。
個人としての「私」は、有限の存在である。しかし、「私」という存在を、先祖から子孫までの世代の連鎖の一部と考えれば、個体としてのヒトの寿命を超えて、「私」の存在を永遠化することが出来る。

「永遠化」などと言う言葉を使ったが、家系図上でたどれる先祖は、せいぜい数世代〜10世代くらいのものだ。20世代たどれる家系は稀だろう。
自分の子孫についても、何代先まで続くか、本当のところはわからない。墓石を残すと言っても、数年で壊れてしまうかもしれない。
それでも、自分の存在を家系の歴史の一部と捉えることで、自分の誕生前、死後の世界との絆を感じ、主観的には永遠に近いものを感じることが出来るのではないか。
そこでは、あくまでも主観的な絆の感覚が重要なのであり、生物学的な血縁関係は、それほど大切ではないものと思われる。
実際、昔(大日本帝国憲法時代まで、あるいは、高度経済成長期まで?)は、「家」を絶やさないための養子縁組がしばしば行なわれた。世代間の絆の感覚に、生物学的な血縁関係がそれほど重要でないことの証左であると思われる。

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現代ではどうだろう?
現代の日本では、先祖供養などの宗教行事はあまり行なわれなくなってきている。
それは、一方では合理主義が社会に浸透した結果、宗教などという非合理的なことに時間やお金を費やすことが敬遠されるようになったということであろうし、また一方では、少子化の進行によって、「家」を中心とした日本の宗教形態を維持することが不可能になりつつあるということであろう。

では、合理的な現代人である我々は、死後のたましいだの、「ご先祖になる」などと言う宗教的な考えにたよらずに、自分の存在が消滅するという事実を受け入れ、心の平安を保てるのだろうか。

最近の日本では、社会の分断、人の孤立化による不安の増大が問題にされることが多い。
そのような同時代の人どうしの「横」のつながりの分断も問題だろうが、「先祖—私—子孫」と言う「縦」のつながりも、もっと問題にしてよいのではないだろうか。


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