【第八話】
いざ行くからには、万全の準備をして臨まねばならない。
松浦はガクケイの名物編集長だったので、よく誌面にも登場していた。『名物編集長と行く、穂高のんびり縦走の旅(ガイドはサリー)』という企画に応募してきた読者は、思いのほか多く、定員の8名を遥かに上回り、30名を優に越した。
リモートで参加した会議で松浦は「さすがサリーだ! 集客力あるねえ」と軽口をたたいて、「みんなサリーが目当てなんだから、人選はサリーに任せたらいいよね。でもできるだけ、初めて穂高を登る人を入れてあげて」と言った。
緩和治療のために入院する松浦不在の編集者たちとの人選会議で、さおりは、とにかく体調不良の松浦をいろんな面でフォローできる人を選んだ。
本来なら、ガイドであるさおり自身がそれを一手に担うべきなのだが、情けないことにさおりにはその自信がなかった。だから、「松浦さんの希望を叶えて、皆、穂高初心者にしよう」と提案する編集者たちに、どれだけ冷たい視線を向けられようと、気づかない振りをして思いを貫いた。
松浦に万が一のことがあっても対応できるよう、その8名には、登山経験のある医師や看護師はもちろん、弱った松浦を抱えて歩けるくらいの体力自慢の若者や、葉っぱの裏まで穂高を精通する熟練者を入れた。
医師や熟練者は複数いると反目し合ってうまくいかないことが多い上に、得体の知れない人だと却って危ないので、信頼できる者を各1名。代わりに、看護師と体力のある若者は2名ずつ入れ、その各1名を穂高未経験者にした。
残った二枠には、小学生の娘とその父を入れた。そうして、経験者4名、未経験者4名のパーティが作られた。
「半分が未経験者ね。もう少し多くてもよかったけど、僕の体のことを考えてくれたんだろうし、まあ、妥当な線かもしれないね」
松浦は、リモート会議用アプリの枠の中で、そう言って笑った。
思っていたよりも痩せていなかったので安心したが、それは松浦の努力の賜物であることを、カメラマンとして、唯一編集部から同行する澤田に聞いた。
「編集長は、今回の山行を、本当に楽しみにしてるんです。もうあまり食欲もないみたいなんだけど、筋肉をつけるために必死で食べてるんです。僕、あんなに辛そうに食事を摂る人、見たことないです。……サリーさん、なんとしても、成功させましょうね」
松浦の頑張りを前にして、自分は何もしないではいられなかった。
さおりもスキルアップと体力アップを自らに課した。週3でトレーニングに通い、徹底的に持久力と筋力を鍛えた。
そして、山行に支障をきたす恐れのある、更年期からくる様々な不調を緩和すべく、ホルモン補充療法も開始した。
最初は、卵胞ホルモンと黄体ホルモンが合わさったシール状のパッチを体に貼り、二日に一回それを取り換える方法を試した。だがこのやり方は、どうしても不正出血の回数を増やすらしく、そのタイミングは全く予測できないばかりか、その期間も長い。更年期による様々な苦痛を緩和することはできても、不意に起こる長期の出血は、山には向かない。
そのため、さおりは医師と相談し、周期的に二種類のホルモンのパッチを変えて貼った後、意図的に何も貼らない期間を作る〝周期的方法〟を試すことにした。
このやり方によると、意図的に出血する期間が作られるため、出血を比較的コントロールすることができる。いわば、人工的な生理を作ることで、不正出血を防ぐのだ。でもそれも、自然な生理と同じで、完全にコントロールすることはできない。
(やっと生理から逃れることができると思ったのに、また自分から作りにいくなんてね……)
人には、やめたくてもやめられないものがある。
目的を手放して、その時を待っていると、潮目は、ある日突然やって来るものだ。
さおりにとって、やめたくてもやめられないもの。
もしかしたらそれは、女であることなのかもしれない。
〝生理があろうとなかろうと女は女である〟という思いを前に、さおりが感じた惑いは、女である目的を果たしてこなかったことへの後悔あるいは罪悪感。
愛する人を、その目的を果たせないかもしれないという可能性で諦めなくてはならなかった執着と憤り。
さおりは、女であり続けたかったのかもしれない。
母になるという目的を持ち続けたかったのかもしれない。
躊躇していたのは、更年期による体の変化ではない。
何もせず、女の潮時を迎えることへの戸惑いだ。
たとえ現実的には、妊娠なんてあり得ないとしても、生理が来ている間は、自分が母になれるかもしれないという期待を持つことができる。子どもが欲しいわけでも、その努力をしているわけでもないのに。むしろ、母になることを避けて生きてきたのに。
それはまるで、買いもしない宝くじの、呼ばれもしない自分の番号を、ひたすら当選会場で待ち続けているようだった。
だからさおりは、あれほど疎んだ生理を人工的に作ることへ容易に同意した。
山では明らかに邪魔にしかならないそれを、大事な山行の障害になるかもしれないとわかっていても。恩人のためと言い訳をしながら、体調を整えるためだと正当化しながら、泡沫の希望をつなぐために。
山行当日、松浦たち関東組は、新宿から高速バスで直接上高地入りをすることになっていた。さおりは、関東以外から来るメンバーと松本のパスターミナルで落ち合い、共に上高地に向かう段取りになっていた。
その日の朝、家を出る間際、さおりの元にその人工的な生理が来たのだ。
医師の予測日の一週間前に。
松本へ向かう揺れる車内で、涸れることはないのではないかと思われた汗の泉がやっと底を突き、滝のような汗が漸く乾き始めた。
さおりは、自らの脇をちらりと見て、派手な汗染みになっていないのを確認し、ほっと胸を撫で下ろし不格好に広げた腕を下ろした。
終着駅に列車が入線する直前、さおりのスマホが鳴動した。松浦からだった。
声を潜めながら電話に出ると、受話器から聞こえてきたのは松浦の声ではなく、澤田のものだった。
「はい、佐々木です。あれ、澤田さん? これ、松浦さんの携帯ですよね? どうしたんですか?」
「……今、編集長が……亡くなりました」
「えっ」
「容体が急変して、明け方、病院へ搬送されたのです。そしてそのまま……」
受話器の向こうで澤田の咽ぶ声がして、声にならない音がさおりの口から漏れた。
頭がショートして、再起動するまでの間、さおりは動けない。
身体中の全ての機能がフリーズしたような感覚。音も色も熱もゼロになる感じ。
それなのに。
冷ややかな体の奥で、下腹部をじんわりと何か温かいものが下りていく。おそらくそれは、子宮から剥がれ落ちた血の塊。
列車の扉が開いた。排水溝に水が集まって音を立てて流れていくように、先を急ぐ乗客がホームに溢れた。
さおりは降車を急ぐ乗客に押されてよろけ、足元に抱えた自らのザックに蹴躓いて尻もちをついた。その瞬間、尻の下に生温かい染みが広がるのを感じた。
【第九話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第八話、いかがでしたでしょう。「潮時」は、遠からず来るだろうとぼんやりと予想した姿とタイミングを超えて、突然に、劇的にやってきました。ああ、これがその時と、さおりに一瞬で多くを納得させただろう強さと残酷さに圧倒されます。今回でさおりの物語『招かざる客』は終わりです。この後また別の「潮時」が描かれる新章に続きますが、次回は物語は一休みしてエッセイになります。どうぞお楽しみに。
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