潮時 第四十五話

【第四十五話】

満男は、団子を手にしたまま、姨捨駅のホームを歩く。動作はゆっくりなのに、脈が速くなり、息が上がる。

「鶴子? どこ行った?」

先ほどまで二人で座っていたベンチは、ひっそりと、次に誰か座る人を待っている。

「トイレか?」

再び駅の外へ出て、待合室の隣にある公衆トイレの中に向けて声をかける。

「鶴子? いるのか?」

声はなかった。
満男は、身体中の血が足元に落ちていくような感覚に襲われた。頭が真っ白になり、思考がついてこない。

「どこ行ったんだ? 鶴子」

泣き声のような満男の声に、駐車場のあるほうから歩いてきた、若い学生風の男女が反応した。

「どうしたんですか?」

「いや。ちょっと妻がね、いなくなっちゃって……」

「えっ。どこで?」

「松本方面行きのホームのベンチに座ってたんだけど、ちょっと車に荷物取りに行ってる間に、いなくなったんだよ」

「おばあさんですか?」

「ああ……、まあ、そうだ。妻を見なかったかな?」

「それだったら、さっき姥捨公園の方へ歩いて行ったかも」

「姥捨公園? それ、どこにある?」

「そのすぐ先の、道徳踏切っていう小さな踏切を渡った先にある、小高い丘ですね。僕たち、そこ行ってたんですけど、さっきすれ違ったのが、おばあさんだったような……」

「ありがとう。行ってみるよ。……あ、もし、その辺にいたら、電話……あ、しまった。車だ。じゃ、ちょっとだけ駅で待っててもらえないかな?」

「えっ」

「すぐ戻るから。見てくるだけだから。その、姨捨公園ってのは、遠いの?」

「いや、すぐそこです。向こうの無料駐車場へ行く手前にあります」

「じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけ待っててくれないか。もし妻がいなかったら、帰ってくれてもいいから。いたら、捕まえておいてほしいんだ」

「まあ、いいですけど……」

「すまんね。ちょっとね、呆けちゃってるんだ、あいつ。だから、迷子になっちゃうから」

「……わかりました。もし見つけたら、一緒に駅で待ってればいいですか?」

「助かるよ。申し訳ない」

満男は、若者に教えてもらった姨捨公園へ急いだ。
若者に言われた通り、満男の車が停まる駐車場へ行く途中の線路沿いに、歩行者専用の小さな踏切があった。

姥捨駅は山の中腹にあり、勾配がきついので、姥捨駅を通過する特急を除いて、電車はスイッチバックをして姥捨駅に入線する。
そのため、線路の東側にある姥捨公園へ行くためには、まず駅構内へ侵入するスイッチバック用の線路を横切った後、かなり斜めになっている丸太の土留めのある階段を下りてから、今度は本線の線路を横切るようになっており、二つの踏切を跨いでいかなければならなかった。

日が沈んだばかりとはいえ、既に薄暗くなった灯りのないその道を、満男は足が縺れそうになりながら、転げ落ちるように進んでいった。

二つ目の道徳踏切を超えると、左に小高い丘のような山があり、その手前に掲げられた看板に〝姥捨公園〟の文字が辛うじて見えた。

「鶴子? いるのか?」

声をかけながらそちらへ足を踏み入れると、一気に傾斜がきつくなった。
アスファルトの剥げた道の段差に躓き、転びそうになりながら、月夜、足元のおぼつかない坂道を上がる。この冬で80になる満男には、かなりきつい。息を切らしながら、満男は声をかける。

「鶴子? どこだ?」

やがて、上と下へ行く分岐点にさしかかる。満男は迷うことなく上へと歩を進める。
すると、奥に東屋らしきものが見える。傍らに、立派な石碑が立っていた。どうやら芭蕉が、田毎の月を詠んだ句が刻まれているようだった。

(鶴子が、さっき車で言っていたのは、これのことか)

既に暗くなった辺りを見渡す。
足元に広がる夜景や月夜にうっすら浮かぶ棚田に目を遣りながら、どこかに鶴子がしゃがんでいないか、草むらに倒れていないか、足元の崖下に目を凝らす。

「鶴子? 鶴子? いるなら声を出せ」

この先にはいないと思い振り返ると、さっき登ってきた道の右横に、さらに上へと続く階段があるのに気づいた。それは、さっきよりもさらに斜度のある山肌に、丸太で組まれていた。ともすると、尻もちをついた拍子に後ろに転がり落ちていきそうな階段を、満男はよろけながら上り、どうにか一番上に辿り着く。

狭い山頂には、小さな石の祠が五つ並んで盤座の上に建っていた。いずれも注連縄がかけられていて、手厚く祭られているのが一目でわかる。満男は頭をひとつ下げた後、それらの裏に回り込み、鶴子の名を呼んだ。

「鶴子? いるのか? 俺だ」

耳を澄ませて、ほんの僅かな気配も逃さないようにした。
うっかり足を踏み外して、斜面に落ちて動けなくなっているかもしれない。
満男は、自分自身も落ちないように注意しながら、可能な範囲で身を乗り出し、鶴子の姿を探した。でも鶴子はどこにもいなかった。

トボトボと元来た道を引き返し、若者たちが待っている駅へと急ぐ。踏切の手前に、棚田のある集落へと続く道の分岐があった。

(こっちに下りていった可能性もあるな。でも、とりあえずは駅だ。もしかしたら戻ってきてるかもしれないし。彼らが見つけて待っててくれているかもしれない)

駅に戻ってみても鶴子の姿はどこにもなかった。

「君たちはどの辺りで、鶴子にすれ違ったんだ?」

「奥さんかどうかはわからないですよ。おばあさんにすれ違ったのは、二つ目の踏切に行く手前のところです」

「そうか……。その踏切を渡ると、集落のある方へと続く道もあったが、確かに公園の方へ行ったんだよな?」

「さあ……。たぶんそうだと思うけど。わからないです。すれ違ったのはあの集落に住んでるおばあさんなのかもしれないし……」

「車のところに戻ったってことは、ないの?」

これまで一言も発していなかった女のほうが呟く。

「確かに。見てきたらどうですか? 僕ら、ここで見てますよ」

若者の言う通り、その可能性はある。満男は言われた通り、一度車に戻り、辺りを見渡した。だがやはり、鶴子はいなかった。満男は、上着と携帯電話とを持って、再び駅のホームにやって来た。

「どうでした?」

「いなかったよ」

「そっか。あの、警察に届けたほうがいいんじゃないですか?」

「警察か……」

満男はその単語に怯んだ。
まだ、警察の厄介になるほどではないと思いたかった。だから返事を濁した。
若者はさらに続けた。

「まだ9月だけど、この辺、明け方は結構冷え込みますよ。探してもらったほうがいいですよ。どこかで怪我とかしてたら大変だし。暗い中、おじいさん一人では、探せないですよ」

「そうだな……」

そう答えながらも、満男の心はここになかった。
彼の心は、困惑と焦燥と不安に囚われたままだった。現実的に今すぐなすべきことを探す力は、今の満男にはなかった。心細かった。一人では耐えられぬほどに。若者は、見るからに頼りなそうな老爺を見捨て、ここを去ることができないようだった。満男はそこにつけこんだ。

「一緒に探してくれないか?」

【第四十六話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『潮時』第四十五話、いかがでしたか。姥捨駅に姥捨公園を探し回る満男、でも姿を見せない鶴子。いったい、どこへ行ってしまったというのでしょう? 助けを求めた若者たちは応じてくれるのか、何がどうなってたったひとりで久代駅へ車を飛ばすことになるのか? 次回もどうぞお楽しみに。

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