Twitterでお話しました
みなさまこんにちは。
「妄想生き物紀行」編集担当、ホテル暴風雨オーナー雨こと斎藤雨梟です。
今回も、ポッドキャスター・ぐっちーさんのエッセイ「ネアンデルタール人〜いかにしてホモ・サピエンスはネアンデルタール人と「交替」したのか」を読んで、ぐっちーさんにあれこれお聞きしたもようを、お伝えいたします。
先週のぐっちーさんのエッセイをお読みいただくとより楽しめる内容です。
人類とサル、名もなき共通の祖先
シャルル大熊さんからの質問です。
ヒトとサルの共通祖先が現生のサルとものすごく似ていたら「ヒトはサルから進化した」も、「ヒトはサル(に酷似した生物)から進化した」の意味でそう間違っていない気がしますが、どうなのでしょう?
— シャルル大熊 (@charles_okuma) June 22, 2022
先週のエッセイの、人類はサルから進化したのではなく、人類でもサルでもない第三の生物から、人類とサルが分岐したのである、というくだりについてのコメントですね。
確かにそうですね
ただ、サルに酷似した別の生き物なので、厳密にはやはり現生のサルとは別種と考えるのが自然だと考えています
この前提を理解した上での「ヒトはサルから進化した」であれば間違いとは言えませんが、一般的にそこまで理解して使われているか疑問に思っています— ぐっちー (@mousou_guccy) June 22, 2022
はい、確かにそうだけれど誤解を与える表現でもあると私も思います。「サルから進化」とする表現は、現生のサルが大昔にもいて、一部は人類に進化し、一部はサルのままだったというような印象を与えるんですよね。
思うに、共通の祖先の名前がない(いや、あるんでしょうけれど知られていない)のがいけないんじゃないでしょうか。「ご先祖さま」に親しみやすい名前をつけてはどうなのか。
しかし一方で思います。「先祖」というと、n代遡れば2のn乗人の先祖がいるはずだというのに、自分とよく似た一人の人間にイメージを集結させがちな我々人類です(例:磯野家の先祖が波平そっくり)。ご先祖様は自分と似ているはずという思い込みが強すぎて、現実のご先祖さまがちょっとサルに似ているだけで「これはサルだ」と感じてしまうのです。名付けようとするとその名にサル要素が入り込んできて結局元の木阿弥かもしれません。同様の理由でサル界では「サルは人間から進化した」と言われている可能性は低くないでしょう。
そこへいくとやはり、見た目も違いコミュニケーション困難な存在としてムーミンのご先祖さまを描いたトーベ・ヤンソンさんはさすがとしか言いようがありません。
↓これ。↓ ムーミンのご先祖様がま口ポーチなら私も愛用してます。
シャルル大熊さん、どうもありがとうございます!
思えば遠くへ10万年
続いて、ホテル暴風雨風オーナーからのコメントです。
10万年も昔の話になると2種類の人類がいたとわかるだけでも大変なことだと思います。よほどたくさんの骨を掘り出して分類・研究した結果なのでしょう。ましてや両者の学習能力を比べるなんて! ホモ・サピエンス、10万年でなんと遠くまでやってきたことでしょう。
— 風木一人@ホテル暴風雨オーナー (@Kazeki_Kazuhito) June 23, 2022
本当に、なんでそんなことわかったの? と驚嘆するばかりですよね。こちとら5分前のことでもわからなくなりがちだってのにですよ。力を合わせてエンヤコラとすれば現人類も捨てたものではありません。人類の端くれとはいえ1ミリも貢献してない気がするけれどそれはそれとして。
そろそろ分岐してもいい頃でしょうか
— ぐっちー (@mousou_guccy) June 23, 2022
分岐といえば、10万年前の「2種類の人類の共存時代」がどんな感じだったのかには興味津々です。
今ある遺伝的差異が分岐に至るかどうかが、現在決定されつつあるかもと思うとちょっとワクワクしますね
— SAITO Ukyo (@ukyo_an) June 24, 2022
これからまだ遠い未来まで行けるんでしょうか、人類は。
風オーナー、どうもありがとうございます!
あいつらもはや別の生き物だ、という分断が生むものは
さて、ネアンデルタール人の研究に新しい風が吹いたのは、ゲノム解析が進んだおかげと聞いています。私はそれ以前の、「ネアンデルタール人よりも賢く凶暴で好戦的だった現生人類の先祖が、たちまちのうちにネアンデルタール人を皆殺しにして絶滅させた。人類恐ろしい〜」という説(話の最後に「人類恐ろしい〜」のニュアンスが加わるのはオプションではなく必須でした)が優勢だった時代を記憶する世代ですが、それがすっかり覆され、今では諸説あるものの共存期間がかなり長く交雑も進んでいたことは確実だとか。殺戮を好むことは歴史から明らかとされる現生人類ですが、案外恐くないのか。
別種の人類との共存について語りたいものだと思っていたところにちょうど、ぐっちーさんからこんな問いかけが……
今の60歳前後は新卒の頃「新人類」と呼ばれていましたが、交替劇は起こっているのでしょうか?
— ぐっちー (@mousou_guccy) June 22, 2022
つまり新人類って言葉を、40年くらい前から同じ現生人類に使うようになったのでしょうか。
しかし自分より下の世代に「この頃の若いモンは」と説教しがちなのは老人の変えられない習性というべきもので、当時の古いモンたちより上の世代は「新人類」って言葉を思いつかなかったのがむしろ不思議です。
交代劇は……ふつうに起こってますね、当時の旧人類たちはもう引退してますから。あれ、それが正解なのか、本当に?
「旧人類」「新人類」といっても単に旧世代と新世代を表していたのだとしたら時間とともに自然に交替しますね。でも旧世代な価値観が復権した可能性もあり、今の60前後が「旧世代」にしか見えない立場からはもう見分けがつかないような……
— SAITO Ukyo (@ukyo_an) June 22, 2022
世代ではなく習慣やら価値観やらの交替だと思うと、自信がなくなります。古いものが復権することもあるので。
そもそも今の60前後と今の70前後と今の80前後の世代間ギャップを後の世代があまり理解していないと、埋もれてしまいそうな問題ですね。つまりすでに埋もれかけている上永遠に埋もれるしかない問題です。DNAじゃ解析できないでしょうし。
そして聞いてみましたよ、異種人類の並存について。
ネアンデルタール人の復元像は、人種は少し違うにせよ同じ人間にしか見えません。別種の人類でもこうなので、種が分化し始めた頃の違いというのは、本当に「近頃の若いもんは……」程度のちょっとした差異なんでしょうか? 異種人類の並存ってどんな感じか不思議で🤔 ぐっちーさんはどう思いますか?
— SAITO Ukyo (@ukyo_an) June 22, 2022
基本的には継続的な物理的隔離による分化で血が濃くなるというイメージを持っています
なので、久しぶりに会ったら特定のインフルエンサーにひどく傾倒していたり、右寄りになっていたりして、コイツとはもう付き合えねえな、というのが異種人類との交流感覚ではないかと推察します— ぐっちー (@mousou_guccy) June 22, 2022
な、なるほど。
リアルというかなんというか……
生々しくイメージが浮かびます😆地理的に隔離されなくても生殖隔離が起これば別種になると考えると、「私はこういうグループに属する、あなたたちとは別種だ」という言語に頼らないわかりやすい断絶的レッテルがあればあるほど分化しますね。世界を小さくするはずのネットはそれに拍車をかけそうです。
— SAITO Ukyo (@ukyo_an) June 22, 2022
生々しいです。
現人類の一部は何でもかんでも140文字で語り尽くすのに長けてきました。自分がどういう人間か140文字で表現し、他人のことも140文字で理解できるとあらば、「同種」「別種」の判定など秒単位です。分断・分化が進むかどうかは、「判断は早いが別種判定した人間の中に敢えて入っていくのを好む人」「異種人類がタイプだという指向の人」の比率に依存しそうです。
思想や貧富によるブロック化はポスト人類を産み出す布石になっているかも知れないですね
— ぐっちー (@mousou_guccy) June 22, 2022
インターネットは分断を可視化するツールなのか、世界を小さく一つにするツールなのか、10年も待たずに続々と結論が出そうな予感がします。怖いけれど面白い。
タイトルの絵はぐっちーさんのオヤジギャグをリスペクトしきれない中途半端なダジャレです。
「ニャーンデルタール人は猫と競合関係にあったが猫に負けて絶滅した」と言われたら何ら疑問を差し挟まず納得してしまうのが猫好きというもの。だって猫の方がどんな生物より可愛いに決まってるしそりゃ負ける。じゃあ何で人類残ってるのか、と考えが及ぶのに時間がかかるのもご愛嬌です。そんな猫バカといたしましては、猫の未来のために猫好き遺伝子がもうしばらくは人類の中に残って欲しいものだと思う次第です。
というわけで今回はこれにて。
次回のエッセイのテーマは「アジ」です。妄想旅ラジオ第53回「アジ」では、伝説の太公望ぐっちーさんによるブランドアジ「関アジ」や魚の獲り方についてのお話が聴ける他、毎回ながら意外な方向へ広がるポチ子さん、たまさんの「食の話」「旅の話」も楽しめます。予習がてら、ぜひ聴いてみてください!
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