ザリガニ〜「たぶんこんな感じで研究が始まったんじゃないか」劇場

「本日はありがとうございました。この委員会も今日で最後となり、我々としては委員の皆様の議論にもとづき、今後に生かさなければならないと決意を新たにしたところです。それでは委員の皆様の労をねぎらい乾杯したいと思います。乾杯。」

乾杯の合図に合わせ、おのおの飲み物を口につけた後、会場から拍手がわき上がった。
乾杯の挨拶を行った川井が一気にグラスのビールを空けているのが見える。
「川井さん、お疲れ様でした」
浜野は声をかけた。
「浜野先生、委員会ありがとうございました」
川井は答えながら浜野のグラスにビールを注いだ。
「川井さんのおかげで、いい議論ができました。何かありましたらまた呼んでください」
浜野はそう言って川井のグラスにビールを注ぎ返した。
ホテルの宴会係が取り分けてくれた料理を浜野に差し出しながら、川井は思い立ったように浜野に話しかけた。
「そういえば、浜野先生はザリガニにも詳しいですよね」
「そこまで詳しくはないですが、甲殻類であれば多少はお力になれると思いますよ」
浜野がそう答えた後、少しためらいながら川井は切り出した。
「実は私ザリガニマニアなんです。子供の頃に1m近くあるザリガニを見たことがあるんです」
「1m!全長ですか?」
驚いたように浜野は聞き返した。
「私が小学5年生の時に同級生の父親が摩周湖で大きなザリガニを捕まえたという話を聞いて見せてもらったんです。第1腹肢内肢の形状からオスだと思うんですが、頭胸甲長が47㎝もありました。腰が抜けていたので全長は測りませんでしたが1mはありました」
川井は早口でまくし立てるように続けた。
「子供だったのでカメラも持っていなくって、証拠がないのが悔やまれます。標本にしたいと同級生の父親に譲ってもらうようお願いしたんですが駄目でした。証人になってもらおうとその同級生を最近になって探したんですが、今はどこにいるかわかりません」
「摩周湖には正体不明の巨大ザリガニがいるという噂は聞いていましたが、本当なんですね。私も見てみたいですね」
浜野は川井の勢いに押されながらも、興味深く聞き入った。
「まだあるんです」
川井は更に続けた。
「それから10年たったある日、私は摩周湖で刺し網をしている集団を見まして、その網に頭胸甲長30㎝ほどのザリガニが引っかかっているのを確認したので、そのザリガニをくれとお願いしたんですが断られてしまいました」
「そりゃ密猟者だからね。証拠を渡す馬鹿はいないでしょ」
「写真も撮らせてもらえなかった」
「それは残念でしたね」
浜野はあきれ半分、そして本当に残念な気持ち半分で相づちを打った。
「そうだ、浜野先生。私の方で許可を取るので一緒に摩周湖で調査してもらえないでしょうか」
浜野は突然の勧誘に困惑しながらも川井の提案に魅力を感じた。
「いいですね。でも、摩周湖のザリガニといえばウチダザリガニでしょうね」
「そこなんです。1930年にアメリカのオレゴン州からウチダザリガニが移入された以外の記録はないんですが、アメリカではウチダザリガニはそこまで大きくないんです」
川井はすでにある程度の下調べを済ませているようで、マニア気質を前面に出したマシンガントークを披露した。
「別種の可能性もあるということですか」
「世界最大のザリガニはタスマニアザリガニと言われているんですが、そんなのが放流されたとも考えにくいし、摩周湖はカルデラ湖で、今の形になったのも二千年前らしく、近隣からザリガニが自然に移入してくるとも考えにくいんです。それも含めて調べてみたいと思っています」
一言質問しただけなのにその何倍もの回答が返ってきた。
「わかりました。是非協力させてください。学生を連れて来年の夏にでも調査しましょう」
浜野はこう答えて、また北海道に来る口実ができたと内心喜んだ。

通常、学術論文は論文背景、調査方法、調査結果、考察といった構成で書かれているのだが、論文背景はその調査対象の重要性や調査の意義を論じることが多い。ところが、「摩周湖に分布するザリガニについて」という論文では、論文背景がドラマ仕立てになっていて妄想をかき立てられる。同級生家族はなぜ行方不明になってしまったのか気になる。

今回は論文の冒頭部分を「たぶんこんな感じで研究が始まったんじゃないか」という妄想でお送りしたが、案外飲み会の席で研究が始まることも多かったのではないかと推察する。もし、この会議がオンラインだったら、この研究は生まれていなかったかもしれない。最近ようやく飲み会も再開されつつあるので、さらなる面白い研究が生まれることを切に願う。

(by ぐっちー)

※このエッセイ「妄想生き物紀行」第89回はポッドキャスト番組「妄想旅ラジオ」第89回「ザリガニ」と関連した内容です。「妄想旅ラジオ」は、ぐっちーさん、ポチ子さん、たまさんの3名のパーソナリティーが毎回のテーマに沿って「生き物」「食べ物」「旅」について話す楽しいラジオ番組(ポッドキャスト)です。そちらもお聴きになると一層お楽しみいただけますのでぜひどうぞ! ポッドキャストはインターネットのラジオ番組で、PCでもスマホでも無料でお聴きいただけます。詳しい聴き方などは「妄想旅ラジオ」のブログを。

ぐっちー作「妄想生き物紀行」第89回「ザリガニ〜「たぶんこんな感じで研究が始まったんじゃないか」劇場」いかがでしたでしょうか。今回もお読みいただきありがとうございます、編集担当・ホテル暴風雨オーナー雨こと斎藤雨梟です。

こんにちは!

久々の妄想創作回に浮き立っております。こんな会話があったんでしょうか。浜野先生も川井先生もビールが好きそうなところがぐっちー節?

そして妄想創作の源泉である論文「摩周湖に分布するザリガニについて」は本当に冒険小説のようで面白いのでおすすめです。研究はエンタメ、論文はガイドブックですね。ぐっちーさんも注目したように、巨大ザリガニを釣り上げた同級生家族が「諸事情により行方不明」なんてことまで書いてあるのもものを思わせます。

とても読みやすい内容ですが、出てくる用語に時々「?」となるのでちょっぴり解説。あくまでも「私調べ」なので厳密ではないですが、論文を読むのにこれくらいの理解でも十分楽しめるかと思います。

額角:ザリガニの頭に生えているツノみたいな、虫でいうと触角みたいな部分のこと
鉗脚:大きなハサミのある脚のこと(ハサミ部分も含む)
頭胸甲長:頭から尻尾の付け根までの長さ
ネオテニー:幼体成熟。幼体の特徴を残したまま性成熟している状態、個体のこと
アロメトリー式: 生物の個体の大きさによるプロポーションの違いを定式化したもの(大雑把に言うと、子供から大人になる時に全身に対する頭や手足の大きさの比率がどう変わるか? それとも変わらないか? をたくさんのサンプルを取って調べた結果の式みたいなもの)

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さて今回も、ぐっちーさんとみなさんと、X(旧Twitter)でお話したいと思います。ザリガニについて、巨大生物の伝説について、UMAについて、などなどなんでもお話しましょう。参加方法はX(旧Twitter)に書き込むだけ、なので初めての方も、ラジオお聴きのみなさまも、質問してみたい人はもちろんただお話してみたい人も、エッセイを読んでの感想、ぐっちーさんへの質問やツッコミなど、ぜひお気軽に。お待ちしています。

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