神話と呪術、科学と技術

前回、宗教において、物事の理由を説明するのが神話で、その神話の説明に基づいて物事を操ろうとするのが呪術だろうと書いた。これは、科学と科学技術(テクノロジー)の関係に似ている。科学も、様々な現象の理由を知りたい、説明したいという欲求を満たすためのものだ。そして、その科学の知見を応用して物事を操ろうとするのが科学技術だ。

では、科学-科学技術と神話-呪術の違いはなんだろう。科学は科学的だが、神話は非科学的だ。近代的な科学が発達するより前、物事の本当の理由が解明できなかった頃には、理由を知りたいという欲求を満足させるために適当な説明を考えて納得していた。と、いう考え方もあろう。だが、もう一つの見方として、客観的に観測できることがらに焦点を当てて物事を説明するのが科学で、むしろ主観的な認識に焦点を当てた説明をするのが神話であるとも考えられる。

例えば、雷という気象現象がある。上昇気流によって雲の水滴や氷の粒がぶつかり合いこすれ合い、静電気を起こす。雲の中に溜まった静電気が放電を起こすのが雷だ。私が自分で確かめたわけではないが、みんながそう言うし、ウィキペディアにも書いてあるからそういうものなのだろう。適切な知識と適切な技術と適切な道具と十分な時間さえあれば、誰でも雷が電気現象であることを客観的に確認することができる(はずだ)。
一方、我々が雷を体験するときには、客観的な現象としての雷を見たり聞いたりするだけではない。驚愕や恐怖といった感情も経験する。「雷なんかちっとも怖くない」という人もいるかもしれないが、少なくとも私は、すぐ近くに雷が落ちる爆音を聞くと、体が強張るのを感じる(*1)。また、幸いまだ経験はないが、ゴルフ場のようなだだっ広いところで雷に会ったら、また別な恐怖を感じるのではないだろうか。

科学は、雷の原理や電圧の数値を示し、物理現象としての雷を説明するが、雷を体験した時の恐怖心は説明しない。その恐怖心は、むしろ「怒れる神が怒号と共に光の矢を投げ下ろす」という神話的表現によって、より良く説明される。
科学の中にも心理学とか神経科学という分野もあり、これらは感情の起こるメカニズムを説明する。だが、「大脳皮質からの感覚入力が扁桃体の神経細胞を興奮させ、その信号が自律神経系の反応を・・・」という理屈は、雷に会った人の恐怖という主観的な体験自体を説明はしない。

本来、我々が何かを経験するときに、客観的な事実の認知と主観的(感情的)な体験とは同時に起こるものである。自然科学は、そのうちの客観的事実を主観的体験から切り離して記述し、体系化し、世界中の人々と共有することで大きな成果を上げてきた。そこでは、できるだけ明確に定義され、誤解を生まない言葉が選ばれ、主観を排した理論が重視される。だが、我々が主観的な(感情的な)体験をするのもまた事実である。そのような体験は、神話に見られるような、比喩的、擬人的な言葉によってこそ、適切に表現されるのではないだろうか。客観的・論理的な科学の思考と、主観的・比喩的な宗教の思考は互いに補い合う関係にあるのではないだろうか。

とうとう連載第1回のテーマに戻ってしまった。この連載も、そろそろ終わりに近づいてきたようだ。

*1 「怖くない」と言う人の皮膚の電気抵抗や心拍数を計れば、恐怖反応を「客観的に」確認できるかもしれない。