「子曰く 之(これ)を道(導)くに政(まつりごと)をもってし、之を斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民 免れて恥無し。之を導くに徳をもってし、之を斉(ととの)うるに礼をもってすれば、恥ありて且つ正し。」 (為政編三)
政(まつりごと)とは、政治、統治行為一般のことも指すが、ここでは、王や官僚の出す命令、政令や法律のことと理解すれば良いだろう。ここではむしろ、「これを導く」「これを斉うる」という言葉で、統治行為一般を指している。
刑とはもちろん、命令や法律に違反した場合の刑罰のこと。
こういった方法で統治を行っても民衆は抜け道を探すだけだからダメだと言っているのであるから、現代風に言えば、法治主義の全否定とも受け取れる文章だ。
21世紀の現在、中国を含めた全世界の国々で(少なくとも建前上は)法治主義がとられているということを考えると、この孔子の考え方は全世界から否定されたと言えそうだ。
だが、その一方で、この孔子の言葉は、法には必ず抜け道があるという、法治主義(あるいは、もっと広い意味での契約主義)の弱点を鋭く突いていることも確かだ。
孔子は常々、「中庸」の大切さを説いている。極端な考え方に走ることなく、バランスをとること。「中庸」は、孔子の思想の主要な柱の一つだ。
この節で訴えているのも、法治を捨て去って徳治を行なえ、ということではなく、法治を実践するにあたっては、為政者の側は自らの徳、不徳に常に注意を払い、法治と徳治のバランスをとる必要があるということではないだろうか。
いかに法律によって取り締まろうとしても、巧みに法の網をかいくぐる者が出てくるのは、現代においても我々がさんざん目にしていることである。「免れて恥無し」という状況は、孔子の生きていた時代と全く変わっていないようだ。
また、為政者(政治家、官僚)の「不徳」の問題も、いやというほど見てきた。
だが、現代の民主国家では、政治家の任免は主である民の責任である。
孔子の時代なら「君子(為政者)の徳は風なり、小人(民)の徳は草なり」(顔淵十九)で、為政者の徳によって民をなびかせるという発想だったが、現代は民の徳によって為政者をなびかせなければならない。民により大きな徳が求められている。
民主国家の民は辛いのである。