なにわぶし論語論 落ち穂拾い2

斉(せい)の景公、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、君は君たり、臣は臣たり。父は父たり、子は子たり、と。公曰く、善いかな。信(まこと)に君は君たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらざれば、粟(ぞく)有りといえども、吾得て諸(これ)を食らわんや、と。
(顔淵 十一)

――――斉の王様、景公が、政治のあり方について孔子に質問された。孔子はこう答えた。「主君は主君であり、家臣は家臣であります。それは、父が父であり、子が子であるのと同様です。」王様は言われた。「良い答えだ。まったく、主君が主君らしくなく、家臣が家臣の立場をわきまえなかったら、あるいは父と子の関係が乱れたら、たとえ食料が十分にあっても、安心して食べることもできないだろう。」――――

論語を読んで、現代の我々が一番奇異に感じるのは、身分の感覚だろう。孔子の時代の人たちにとって、主君と家臣、王と民衆の間に身分の違いがあるのは、当たり前のことであった。
一方、現代社会に住む我々にとっては、身分などと言うものは非常に縁遠い、と言うか、全く無関係なものである。と、いうのは、本当だろうか?

我々が暮らす社会では、身分制度は否定され、制度としては、平等な社会になっている。だが、今でも我々の心の中には、身分、上下の感覚がかなりしっかりと生きているのではないだろうか。
たとえば、会社にしろ役所にしろ、大勢の人が働く職場には、必ずエライ人というのがいる。そういう人の前に行くと、エラくない人は、(程度の差はあれ)自然とかしこまってしまうものだ。それが、心の中の身分というものではないだろうか。
「いやいや、それは、職階というものが規則で決まっているからだ」と、あなたはおっしゃるかもしれない。では、あなたが定年退職した元会社員だとしよう。買い物に行った街中で、ばったり前の会社の社長に出会った。あなたは社長に向かって、「よう、鈴木君。久しぶりだなあ。元気でやってるかい?」と言えるだろうか? たぶんあなたは、「社長、お久しぶりです。お元気ですか。」と丁寧に話すのではないだろうか。
それに対して社長が、「おお。浜崎君。君は元気でやってるかね。」とエラそうな言葉遣いをしても、特に失礼とは思わないだろう。すでに退職したあなたと社長は、対等であるはずだが、やはり気持ちの中では、身分の上下があるわけである。ただし、誰をエラいと感じるかは、人によって違うだろう。

だが、気持ちの中はさておき、現実的な問題で身分が幅を効かせるようでは困る。
一部のエライ人たちに服従しなければならない社会には生きたくない。だから人類は、身分差別のない社会を作り上げたわけだ。
ところが孔子は、現代の我々とはかなり違うアプローチをとったようだ。
「身分というものは、認めようよ。だって、エライ人はエライような気がするでしょ? でも、エラいが好き勝手していいわけじゃないよ。エラい人ほど、厳格に守らなければいけない倫理があるんだよ」論語の中で彼が主張しているのは、そういうことだ。
そして、弟子の子路から、主君にはどう仕えるべきかと問われたときに、こう答えている。
「欺くなかれ。而して諌めよ。」
主君の間違いを諌めるのが、家臣の仕事だと言っているのである。そして、主君の間違った命令に唯々諾々と従う家臣を「具臣」(数合わせの家臣)と呼んで蔑んでいる。

現代的な考え方では、能力ということと身分ということを一致させようとする。あるいは、能力に基づく役割以外の身分を認めない。正しい判断(論理的にも、倫理的にも)を下す能力のある人がエラい地位につく。孔子の考え方では、能力と身分は別物である。だから、エラくなくても正しい人は、エラい人の間違いを正してあげなくてはいけない。

ふと、こんなことを思い出した。私が高校生だったときのこと。今で言うキャリア講演会のようなものがあり、シンクタンクで働くOBの話を聞く機会があった。その人が日米のサラリーマンの意識調査をしたのだが、その質問項目の一つに、「あなたの上司の指示が正しくないと思われた時、あなたはその指示に従いますか?」と言うのがあったそうだ。それに対して、多くのアメリカ人は「従う」と答え、多くの日本人は「従わない」と答えたそうだ。調査をしたOBは、日本人の方が従順だろうと思っていたので、予想外の結果に驚いたそうだが、要するに、1980年代の日本のサラリーマンには、儒教的な考え方が色濃く残っていたと言うことではないだろうか。
今の日本のサラリーマンに同じ質問をしたら、どう言う結果になるだろうか。

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