「その鬼にあらずして之(これ)を祭るは諂(へつら)うなり。義を見て為さざるは勇無きなり」 (為政編二十四)
表題の「義を見て為さざるは勇無きなり」は、多分皆さんもどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。時代劇なら、血気にはやった若い侍が、刀を引っ掴んで裸足で飛び出して行く時に口にするような台詞だ。(いや、私は別にそれほど時代劇ファンというわけではないのだが。)
それと比べると、一文目の「その鬼にあらずして祭るは諂う也」は、あまり人に知られていない。知名度が違うばかりでなく、この2文を並べると、なんとなく違和感を感じるのは私だけだろうか。
「鬼」とは霊魂、先祖の魂。一文目は、「自分の先祖でもない人の霊を祭るのは、へつらいですよ」と言っている。それはまあわからないでもない。氏子でもないのに遠くの神社に行ってはぱんぱん柏手打ってお願いをし、こっちの寺では「ナンマンダブナンマンダブ」でお願いをするのでは、たしかにへつらいと言われても仕方なかろう。
だが、それを受けた二文目が、「義を見て為さざるは勇無きなり」とはどういうことか。「義」というのが祖霊を祭ることだとすると、それをしないことを「勇無きなり」と断じていることになるが、先祖供養は勇気の問題だろうか?
やはりこれは、一つの比喩として解釈すべきではないだろうか。
孔子の思想では、家庭内の人間関係が全ての道徳の基本であり、主君と臣下の関係は、親と子の関係に例えられる(たとえば、「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」(顔淵十一)。その他、学而六、七など)
親の親のまた親・・・が先祖である。「その鬼」を祭るというのは、封建時代の家臣が自分の主君、あるいは主家のために働くことと考えられるだろう。「その鬼にあらずして祭る」とは、自分の主君でもない人のために働くということ。そう考えるなら、対句の「義を見て為さざる」とは、困っている自分の主君を見捨てることではないだろうか。小国の臣が競合する大国の王に取り入ったり、自分の王を見捨てたりしてはいかんぞよ、と、孔先生はおっしゃっているのではないだろうか。
これは、封建社会だけの問題だろうか。人間の集団というのは、利害や契約だけでなく、多分に、長年培った人対人の信頼関係で成り立っている。個人的な、あるいは短期的な利害だけで長年の信頼関係を壊してはいけませんよ、というのが、この節の要点ではないだろうか。
とは言うものの、「君子豹変す」と言う言葉もある。長年の信頼関係を大切にするか、状況の変化に機敏に反応するか。
封建社会でも、現代のサラリーマン社会でも、君子は辛いのである。
※なにわぶし論語論へのご意見ご感想をお待ちしております。コンタクトフォーム