老人ホームの母の居室を出たのは、日が暮れ始めた時刻だった。
雨が降っているから見送らなくていいと私は言ったのだが、母は「玄関まで送る」と言ってエレベーターに乗ってついてきた。受付の女性に「帰ります」と声をかけ、玄関のガラス戸を出る。「雨だから中に入った方がいい」と言いたかったのだが、すでに雨は止んでいた。
「それじゃあ。また来るね」と言って、歩道を右へ10メートルほど行き、横断歩道の前に立つ。片道二車線の道路の向かい側が駅の入り口だ。赤だった歩行者用信号が青になり、一度振り返ると、母が玄関で手を振っていた。
私は「寒いからもう戻っていいよ」と大声で言い、横断歩道を渡った。渡り終わってもう一度振り返ると、母はまだ歩道に立ってこちらを見ていた。また手を振るので、私も振り返しながら、「大丈夫かな」と思った。見送った後、ちゃんと帰ってくれればいいのだが、何か思い立って、どこかに歩いて行ってしまうとまずい。
私は駅の入り口に入り、母から私の姿が隠れたところで一呼吸して、もう一度道路に戻って通りの向こうを見た。歩道上に母の姿はない。ガラス戸の中を見ると、母が奥へ向かって歩いて行くのが見えた。私はほっとして帰路に着いた。
私は今年で52歳になった。この年代の人の多くが、老いた親の老化と介護という問題に直面する。と同時に、自分自身の老化という問題にも直面する。こちらは、なかなかはっきりとは意識されないことが多いかもしれない。
100年時代と言われる現在、老後というのは、「余生」などという言葉で表せるほど短い期間ではなくなった。老父母の介護、そして自分自身の老いという現実に適応しながら数十年間を過ごすのは、考えようによってはひどく不愉快なことにも思える。
特に不安を掻き立てるのは、認知機能の低下の問題だろう。体力が落ちた、目が悪くなったなどの身体機能の低下の問題は、笑い話になる。健康診断の「数値自慢」は、中高年男性が集まった時の、最も盛り上がる話題の一つではないだろうか。(尿酸値、中性脂肪、エトセトラ)しかし、もし認知症検査を受けて、長谷川式の点数が低かったら、それを話のネタにする人はいないだろう。
これから数回にわたって、私が親の介護(遠距離介護)をしながら経験したこと、そして、日常生活で感じた自分自身の老化について書こうと思う。あまり為になる話はない。だが、面白い話はあると思っている。
私は大学に籍を置き、神経科学の研究をしている者である。神経科学とは、広義の認知機能と、その基盤となる脳の仕組みをあつかう科学だ。神経科学の視点から見ると、老化というのはなかなか面白いものである。
「面白い」などというと、不謹慎だと怒られるかもしれないが、親の老化と自分たちの老化、合わせて数十年は付き合わねばならないのだ。苦虫を嚙みつぶしたような顔をして付き合うよりは、少しぐらい面白がって付き合う方が良いだろう。
というわけで、これからしばらくの「電車 居眠り 夢うつつ」のテーマは、「介護も老化も面白きかな」です。よろしくおつきあいください。
(by みやち)
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