前々回、前回と私は、人の「たましい」を、その人についての記憶と考えてみてはどうかという提案をし、その考え方によって、少なくとも日本における死者の供養の風習が説明できることを述べた。
今回は、少し調子に乗って、死者の側から生きている我々への関わりについて考えてみたい。
「亡くなった人の霊(たましい)が守ってくれる」とか、あるいは逆に「亡霊に祟られる」というのは、よく耳にする話である。いかにも眉唾な話も多いが、「ひょっとすると、そういうこともあるかもしれないなあ」と思わされる場合もある。わたし自身、何かの際に、「ばあちゃんが守ってくれるから大丈夫だよ」などと冗談まじりに言うことがあるが、100%冗談かと聞かれると、自分でも自信は無い。
さて、たましいが、故人についての記憶だと考えると、どうなるだろう。
死者の霊による守護を受けると言う場合、守ってくれるのは、おそらく守られる人の身近な人、生前からとても良い関係のあった人、少なくとも一時期においては良い関係のあった人であろう。そのような故人の記憶、故人との関係の記憶は、残された者にとって、心温まるものであろうし、そのような記憶を時折思い出すことによって、人は勇気づけられるものではないだろうか。そういうことを、亡くなった人のたましいの「加護」と呼ぶのではないだろうか。
一方、霊に「祟られる」のはどのような場合だろうか。おそらく、生き残った方が、亡くなった人に、何か悪いことをした(と、生きている側が思っている)場合だろう。
相手は死んでいるのだから、自分が過去に何をしたとしても、もう済んだことであり、忘れてしまってよいと思われるのだが、人の記憶という物は本人の都合で消すことはできない。
また、いったん罪悪感を覚えてしまうと、さまざまな理屈を駆使して自分の行為を正当化しても、その罪悪感を消し去ることは出来ないものだ。たとえ忘れたつもりになっていても、心のどこかに残っているようだ。
「あの人に悪いことをした」「あの人は自分を恨んで死んだだろう」という記憶は、本人が望むと望まざるとに関わらず、長く保持され、いつまでもその人を苛むのではないだろうか。むしろ努力して正当化したり、罪悪感を無視したりするほど、隠された罪悪感が思わぬところで思わぬ行動を引き起こし、「祟りとしか思えない」という状況が起こるのではないだろうか。
このように考えると、たましい(霊)というものは、生きている私たちにとっても、記憶を通じて、現実的に影響を与える強い力を持っているように思われる。
また、記憶というと、ある社会で共有される記憶もある。そのような社会的な記憶と怨霊伝説のようなものとの関係も興味深いが、これについては、いつか機会があれば考えてみたい。