なにわぶし論語論第33回「憤せずんば啓かず」 

子曰く、自ら束脩(そくしゅう)を行う以上には、吾未だ嘗(かつ)て誨(おし)うる無くんばあらず。(述而 七)

子曰く、憤せずんば啓かず、悱せざれば発さず。一隅を挙げて、三隅を以って反せずんば、則ち復びせず。(述而 八)

この二節は、合わせて読むべきと思われる。

【第七節】自分から教えを乞うて入門する者なら誰にでも、教えないということは決してなかった。
【第八節】(弟子が自ら学ぼうと)発奮しないかぎりは教えてやらない。なんとか自分から質問しようと言葉を探して努力しない限りはこちらから議論を始めはしない。あることの一部分を教えてやって、残りを自ら考えて「こうですか」と質問してこないようなら、もう一度こちらからは教えてやらない。

加地伸行氏の解説によると、「束脩」の意味には二説ある。「髪を束ね身を修める」すなわち大人の身なりができる歳になった者(十五歳以上のもの)、あるいは当時入門時の最低限のお礼の品とされた干し肉の束を持ってきた者。どちらの解釈をとるにしろ、弟子入りの最低限の基準を満たした者のこと。
「悱」というのは今の日本で使われることのない漢字だが、web上の辞書で調べると、言いたいことがうまく言えない状態のことだそうだ。

二節合わせて、孔子の教師としての心構えを語った言葉である。
前半(第七節)では、「誰にでも教えるぞ」と言っている。論語の他の節でも何度か同様のことが語られている(たとえば述而二十三、二十八)。あいつは身分が低いとか、あいつは悪い地域の出身だ、などと言って差別はしない。本人が学びたいといえば、必ず弟子にして教えてやるということだ。
だが、後半(第八節)を読むと、「やる気を見せないやつには教えてやらないぞ」と宣言しているのである。孔子がこれを実行していたとすると、孔子学団は、なかなか厳しいところだったようだ。

「子曰く、憤せずんば啓かず、悱せざれば発さず。一隅を挙げて、三隅を以って反せずんば、則ち復びせず」。
職業的に(いや、職業的でなくとも)人にものを教えている人なら、一度は言ってみたい言葉ではないだろうか。
だが、相手が「憤する」のを待っていたら、いつまでかかるかわからない。最後まで駄目かもしれない。最後まで駄目だったら、それは、自分の教え方が悪いからじゃないだろうか。そういう迷いがあるので、ついつい一隅を教えた後に、もう一隅、もう一隅と、懇切丁寧に教えてしまう。そして後になって、「ああいう教え方ではいかんかったなあ」と反省する。

たぶん教師は、生徒に利用されるのを待っていればよいのだろう。生徒の側が教師を必要とした時に必ずそこに居る。そして生徒にとって利用価値のある人間で居つづける。それが難しいし怖いから、ついつい余計な「指導」をしてしまうのだろう。わかっちゃいるけどやめられない。教師は辛いのである。

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