「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」
ご存知夏目漱石「草枕」の名文句である。
この「知・情・意」あるいは「知に働く」「情に棹さす」「意地を通す」の3つは、社会の中で人が行動を選択するときの判断基準、倫理の3要素と言って良いのではないだろうか。
「知に働く」というのは、ある原則から論理的に判断をすることである。判断のもとになる原則には、宗教の教義や伝統的なしきたり、掟などがあるだろう。
法律というのは、改正されたり運用が変わったりするので原則としては不安定だ。また多くの法律は「これだけはやってはいけない」という最後の一線を示すものであり、良き行動の指針としては弱い。
法律が理念を示すこともあるが、そういう理念は簡単に無視される。最近の例だと、労働契約法の「5年ルール」は、非正規労働者を正規に、という理念は無視され、雇い止めが増えるという当然の結果を招いている。
宗教の教義だの伝統的なしきたりだのは、今の日本では流行らないが、たとえば人が死んだ時に葬式をしたり荼毘に付したりするのは、法律で決まっているからというだけが理由ではないだろう。そのほか、日常的な行動をよくよく振り返ってみれば、誰にでも無意識のうちに従っている「掟」が一つや二つはあるのではないだろうか。
「情に棹さす」というのは、他の人の感情に配慮すること。これは日本ではあまりに日常的なため、普段は気がつかないくらいだが、たとえば人の意見に対して「それは違う」と思った時に、相手や周囲の反応を考えずに、感情的にもならずに即座に「違う」と言える人がどれだけいるだろう。
「なるほど、そうですねえ。あー、でもー・・・」と長い時間を取ってから反対意見を言うか、大した問題でなければとりあえず同意しておくことが多いのではないだろうか。
もっとも、反射的、習慣的に他人の感情に配慮することが「おもてなし」にもつながっていると思うと、あまり悪くは言えない。
「意地を通す」は、他人の意思に反して自分個人の意思を押し通すこと。誰からも反対されなければ「意地を通す」とは言わない。「意地を通す」ことが全くないと、個人の存在理由がなくなってしまうのだが、意地を通すことは日本人には比較的難しいことなのではないだろうか。「決まりだから」でも「皆さんのために」でもなく、自分の意思を通すのは、少なくとも私には簡単ではない。ルース・ベネティクトは、日本人のうち最大の自由を有するのは子供と老人だ、という意味のことを書いていたが、今の日本で気軽に意地を通せるのは、子供だけではないだろうか。
これら3つの相反する基準、相反する力がぶつかり合うおかげで、バランスのとれた行動選択ができるのではないだろうか。どれか一つが強くなってバランスが崩れると、「この世は生きにく」くなってしまうのではないか。
もともとストレートに意地を通すのが苦手な日本人は、場合によって知に働いたり情に棹差したりしながら、なんとかバランスをとって意地を通してきたのではないだろうか。ちょうど2つの大国の間で立ち回る小国の外交のように。
などと考えていたら、なんだかこれは、フロイトのいう「3人の暴君」によく似た話だなあと気がついた。「知に働く」「情に棹さす」「意地を通す」は、それぞれ超自我、外的現実、エスに従うことではないか。
フロイトがロンドンに渡ったのは1938年で、漱石はもう帰国していた(というか、とっくに死んでいた)のだが、実は二人はヨーロッパのどこかで出会っていた、なんて小説を誰か書かないかな。
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