祖霊崇拝のことを考える際に、墓の存在を忘れることは出来ない。墓参りと言うのが、少なくとも日本における祖霊崇拝の一つの基本形であろう。
洋の東西を問わず、古代から墓というものは石で作られることが多い。石、あるいは岩というのは、固く、永く変わらないものの代表である。少なくとも人間の一生くらいのタイムスケールで考えれば、石は不変であると考えてよいだろう。
このような固い素材で墓を作ること、あるいは、実際に先祖代々の墓が現在まで残っていることは、自分の死後も、自分の何かが残り続けるという感覚を与えることに役立っているのではないか。(先祖の霊がそこに留まっているならば、自分の霊もそこに留まるはずである。)
また、その墓に子孫が参ると考えることで、子孫との一体感が生まれるのではないだろうか。(自分が先祖を大切にするように、子孫も自分を大切にするはずである。)
現代社会では先祖供養などの伝統的宗教行事が廃れつつある。だが、たとえ祭祀が継承されなくなったとしても、墓という固い物体は残り続ける。このことは、案外に重要なことだと思う。墓が残っていれば、将来誰かがそれを見て、参ってくれると期待できるからだ。
最近は、先祖代々の墓ではなく、新たに自分専用の墓を購入する人が増えているそうである。先祖代々の墓と言うと、古い因習と一体になっているような印象があるが、これらの人たちは、そういった因習とは無関係に、「新たな墓」を求めているわけだから、墓を求める心は、因習や既成宗教とは無関係に存在するものと思われる。
また、墓に比べればはるかに数は少ないだろうが、記念碑を立てる人もいる。私が個人的に知っている人にも何人かいる。
墓を造る(あるいは守る)人も、記念碑を建てる人も、家系図に凝る人の場合と同様、たいていは、若いときには墓や記念碑などにはそれほど(あるいは全く)関心が無かったものが、高齢期に入ってから急に関心を持ち始めているように見える。
自身の死を身近に感じ始めると同時に、何か自分の存在を後世に伝える、石などの固い素材で出来た堅固なもの(それがまさに「墓」の意味なのではないか)を作りたいという欲求が明確になるのではないだろうか。
先祖代々の墓を守ることは、自分の後の世代もそれを継承してくれることを暗黙の前提として、先祖と自分との関係に焦点を当てているのに対し、新たに記念碑や自分専用の墓などを建てる場合は、自分以後の世代との関係をより強く希求していると考えられそうだ。
また、碑文の中で自分の先祖について言及したり、碑を先祖の墓に並べて建てることで、先祖と自分との繋がりと、自分と子孫との繋がりを同時に表現することも出来る。
(つづく)
前回「家系図調べと祖霊崇拝と永遠の生命と(2)」への補足
昨夜(8月15日)テレビを見ていたら、さだまさしの「精霊流し」が流れてきた。この歌は、タイトルの通り盆の精霊流しの情景を歌っているが、主題は最近亡くなった恋人に対するいわゆる喪の作業としての新盆であり、先祖供養の歌ではない。(先祖供養の歌だったら、あんなにヒットはしなかったであろう。)
第6回では、「先祖供養の行事」として盆、彼岸をあげた。ここで念頭においているのは、ずっと昔に亡くなっていて、供養をする側の自分とは直接の関わりのなかったいわゆる「先祖」、あるいは、以前は関係があったにせよ、その人の喪失に対する喪の作業がすでに終了し、「先祖」の仲間入りをした人の供養である。