デザイン会社K2 長友啓典社長 第5回
「ぼくの小学生時代って、終戦直後ですよ。焼け跡ばっかりやからね。あのころ何になりたかったかなぁ? ああ、機関車の運転士。家が天王寺でね、ターミナル駅やから蒸気機関車、ディーゼル、いろんなの入ってくるのを橋の上から見てるのが好きだった。ニハなんとか、とかあるでしょう?
社長という生き方。社長になること、社長であること。
「ぼくの小学生時代って、終戦直後ですよ。焼け跡ばっかりやからね。あのころ何になりたかったかなぁ? ああ、機関車の運転士。家が天王寺でね、ターミナル駅やから蒸気機関車、ディーゼル、いろんなの入ってくるのを橋の上から見てるのが好きだった。ニハなんとか、とかあるでしょう?
桑沢デザイン研究所の学生時代、一日一人に会うと決めて、いろんな分野の人訪ねていってたことがあります。学生ゆうたら会ってくれるんですよ、けっこう。テレビ局のディレクターとか。デザインやってますって言うと、へえどんなデザイン?とか言ってくれて。
写真家の十文字美信さんが篠山紀信さんの事務所から独立したとき、最初の仕事をお願いしたことがありました。いくら払ったかもう忘れちゃったけど、ワンショットでたぶんアシスタントの数ヶ月分くらいだったんじゃないかな。
便利なもの使ってもいいんですよ。でもみんな同じの使ってたらそりゃ個性なくなるでしょ? コンピューターで全部できると思っちゃダメ。コンピューターがやらない、コンピューターができない隙間を手でほじくっていかなきゃ。
社長という認識がないんですよ、あんまり。30歳のとき黒田征太郎と一緒に会社始めたんやけど、じゃんけんで負けた方が社長になっただけで(笑)。日本デザインセンターをやめてK2作ったのが1969年。もう47年前ですか。
二つ理由があります。まず、メディアエッグの2部門、映像と出版を分けようかと。出版の方を別会社にして、もっと自由のきく形にしたいんです。もう一つは、メディアエッグのある神楽坂って、アーティスト系の人がとても多いんですよ。それを生かして面白いことができないかと。
「たいへんなとき、自営業や社長の仲間に相談することがあります。やはり経営者同士だからわかりあえる部分がある。友人主催の女性企業家の集まりがあって、ときどき参加しています。相談できる専門家が周りにいます。中には防犯担当の女性専門家とか。
「大学出て最初に勤めたのは外資系の銀行でした。4年半ほどいました。でも性格に合わなかった(笑)。特に新人の仕事は機械的なことがほとんどで、面白いと思えなかったんです。そんなときアフターファイヴにライターのバイトをしました。都内の面白スポットを取材して記事にする仕事でした。
高橋社長にとって「社長の仕事」とはどんなものですか?「うちは案件ごとにチームを編成してまとめる会社です。いちばん大事なのは適材適所。映像でも出版でもその企画に必要なものを見極め、ぴったりの人を当てる。これが難しいんですけどね(笑)
社長インタビューは、各界の魅力的な経営者をお迎えし、「社長とは何か」を解き明かしていこうとする意欲的な試みです。 記念すべき第1回は、株式会...