【 恋愛の行方 】
谷崎潤一郎「痴人の愛」を再読していてふと思い出したエピソードも、3回目となってしまった。今回でこの脱線談もおしまいにするつもりだが、そもそもなぜ「痴人の愛」からこの話を思い出したのか。ようやくそのシーンにたどりついた感がある。今回はそのシーンを語ってめでたく3回エピソードの最終回としたい。
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KKが彼女に惚れこんだ理由はなにか。「田で食う虫も好きずき」という言葉がある。KKに対しては「会社同僚」といった意識でしかなく、好きでもなければ嫌いでもない、まして友人とは全然思っていない……そうした関係にあった私は、極力、KKの恋愛には無関心の態度をとった。むしろ周囲の会社同僚たちがなぜ他人の恋愛に関心を持っていちいち騒ぐのか。そちらの方がよほど「どうかしてる」と思っていたし、そんなくだらないことに時間を費やすぐらいならもっと仕事に集中し、定時の午後6時を過ぎたら1分でも2分でも早く退社したい。そう思っていた。
ところがアプローチ成功時にはあれほど陽気に騒いでいたKKが……この推移はいま思い出しても奇妙に思うのだが……次第にふさぎこむようになった。彼がデート開始と騒ぎ始めてからたった2ヶ月ほどのあいだに喜色満面の絶好調は「どことなく冴えない様子」に変化していた。多くの会社同僚たちは、当然ながら「どうやらうまく行ってないらしい」といった目で彼を見ていた。以前から彼をよく思っていない連中は「どうした?彼女は元気か?」とからかい、陰では「ありゃフラれたな」と笑った。以前から彼と仲良くやってる連中はその話題を避けた。この件に関心を抱く会社同僚たちは「うまく行ってない」という推測の目で彼を見ていた。
ところが私はそうは思わなかった。KKの恋愛などどうでもいいのだが、私は私で彼女の会社に足を運び、彼女と会って打ち合わせをしなければならない仕事があった。「うまく行ってない」のであれば、当然ながら彼女の方も浮かない表情でいるはずだ。ところが事実は逆で、こっちの方はどんどん元気になってるというか、ますます女性に磨きがかかってきたような案配であり、たった2ヶ月ほどのあいだに別人28号的な女になっていた。毎日のように彼女を見ている会社の同僚たちは、まちがいなく「恋愛がうまく行ってる」と思っているのだろう。
奇妙だな、と思いつつ、私はその話を自分の会社のだれにも言わなかった。KKと会って広告やプレゼンの打ち合わせをする時も極めてビジネスライクに淡々と打ち合わせし、粛々と相談して意見を出し合い、サッと別れた。
……が、あるとき、彼と二人きりの打ち合わせが終了し、立ち上がって会議室を出ようとした時だった。
「なあ、ちょっと聞きたい」と彼が言った。私は今しがた打ち合わせをした仕事の件で頭が一杯だったので、広告デザインの件でなにか疑問点でもあるのかと思った。ドアのところで立ち止まって彼を見た。
「目標を遂げたらな……なんかもうどうでもよくなってきてな」
一瞬、私は混乱した。目標?いったいなんの目標だ?
次の瞬間に「あっ」と理解した。上体が揺らぐような衝撃を感じ、同時に怒りに近いものを感じた。
「わかるか?……そういうのって、あったか?」
私は黙っていた。
「女って、変わるもんだな。どんどん変わる。……知ってるだろ?」
その後、彼はその変化につき5分間ほど話した。彼女はオシャレをするようになった。彼が「えっ?」と思うようなファッションでデートに出てくるようになった。喫茶店で待ち合わせをした時も、駅前で待ち合わせをした時も、彼は並んで歩くのが次第に苦痛になってきた。あまりにも身長が違いすぎることを思わないデートはなかった。居酒屋に入っても、店員たちがみな彼と彼女を見てひそかに笑っているように感じた。
「笑わせておけよ」と私は言った。声に微妙に怒気が入ってしまったが、構わなかった。「……彼女はしあわせだ。それ以上になにが不満だ」
そしてドアを開け、さっさと会議室を出た。もうこんな馬鹿げた話につきあうのは二度とごめんだ。そんな気分だった。
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その後しばらくして打ち合わせに行ってみると、広報部担当は別の女性になっていた。彼女は会社を辞めたらしかった。KKは軽薄元気を回復した。オレよりも背の低い女を見つけてどうこうと言って笑っていたが、社内で私と視線が合うと、スッとそらした。「あの女は別の男にゆずった」などと笑ってるらしかった。
私は一切のウワサを無視していたが、KKもまた、ある日突然に、フッと消えるようにして会社を辞めた。以来、一度も会わないし、会いたいとも思わない。
✻ ✻ ✻ KKエピソード/完 ✻ ✻ ✻