【 愛欲魔談 】(16)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 ネクタイ談 】

「このネクタイは……」
私はささやかな自分史におけるネクタイ談を語り始めた。そうした話を聞かせることでKKに納得してもらおうと作戦を立てたわけではない。時間がほしかったのだ。KKにとってはどうでもいいような私個人の話をすることで時間を稼ぎ、その間にこの場をどのようにして切り抜けるのが最も良策なのか、模索しようとしたのだ。

思いつくままに父が持っていたネクタイの話を始めた。
父は人一倍のオシャレ人だったので、ネクタイも30本は持っていた。いやもっと持っていたかもしれない。そのうちの何本かを見て「いいデザインだな」とか「いいネクタイだな」と思ったことはある。しかし「そのうちの1本ぐらい譲ってほしい」と思ったことは一度もなかった。仮に言ったところで、父がネクタイを譲ってくれるとは思えなかった。
その理由はなかなか微妙で説明が難しいのだが、父と私の間には、私が中学生になったあたりから、ある種の微妙な対立関係のような電流が流れており、双方ともに「お互いの所有物には手を出さない」というか、そうした空気があった。

大学の卒業が近づいてきた時点で、私は教職ではなく企業就職と早々に決めていた。スーツは1着持っていたが、ワイシャツとネクタイはなんとかしなくてはいけない。特にネクタイには頭が痛かった。スーパーの紳士服コーナーから古着屋まであちこち回り、とりあえず2本を手に入れた。合成繊維の安物で、柄が入っている品はいかにも安物的な柄しかなかったので、濃紺と臙脂の無地にした。

その時点で、「じつは首回り部分はゴムバンド」という安直ネクタイの存在を初めて知って笑った。「いまの自分にはこれでええかも」と一瞬思って手を出しかけたのだが、出した手をひっこめた。安物であれなんであれ、ネクタイぐらいはちゃんと手順を踏んでキチッと締める男でありたかった。

KKは明らかにジリジリした、あるいはイライラした様子で私の話を聞いていた。私は彼のそうした気分に気がついていたが、一向に気がついていないフリをして話を続けた。私にはそうした一面がある。意地悪なのだ。ところが驚いたことに、ゴムバンドネクタイの話を聞いた時点でKKはいきなり大声を発した。
「そうか。その手があった!」

次の瞬間に彼は私の視界から消えた。パッと部屋を出て走って行ってしまった。唖然とした表情の私を見て周囲のデザイナーたちは爆笑した。
「あいつにはゴムバンドタイがお似合いだよ」

その夜のデートでKKはゴムバンドタイをして行ったのかどうかは知らない。そんなことはどうでもいいが、私がさらに驚くことになったのは、KKの彼女がその後数ヶ月のあいだにどんどん変化していったことだ。

前述したように彼女は私よりも長身だということと声のオクターブが低いということ、そうした肉体的特徴以外は特にこれと言って印象に残るような女性ではなかった。私だけではなく、多くの会社同僚たちもみな同じように思っていたにちがいない。

社内の男たちはここで2タイプに別れる。面白がってその理由をKKにくりかえし聞こうとする男たちと、そうした「他人の恋愛事」にはまったく関心がないので無視する男たちだ。
私はもちろん後者だった。しかし仕事として広告主の会社に行く必要があり、彼女と打ち合わせをする必要があった。週に1回はその会社に足を運んでいたのだが、ヘアスタイルといい、ファッションといい、化粧といい、彼女はぐんぐん変わっていった。同時に態度にも変化が現れた。どことなく陽気で明るくなった。
「へえ、こういうものか」と私は何度も思ったものだ。「……あんなヤツでも恋人ができれば、女性はここまで変化するのか」

つづく


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