魔のオブザーバー(6/最終回)

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【 その4:背中競演 】

岐阜のさる銭湯に行くと、時刻にもよるが、見事な刺青競演を存分に鑑賞することができる。午後6時や7時あたりではダメだ。狙いどきは閉場近い10時ごろがいい。
「えっ、ダメなんじゃないの?……そこはお断りしてないの?」といまあなたは思ったかもしれない。まったくそのとおりで、ぼくもちょっと不思議に思う。理由があるのかないのか知らないし、知ろうとも思わないが、しかし美的見地から見てこれは十分に鑑賞に耐えうるものであり、なおかつ滅多にお目にかかれるものではない。なので「まあ、こういうのもアリ」という側にぼくは旗を上げたい。

さてこれを初めて見たときだが、カラリとガラス戸を開けて浴室に入った途端に、4人ほどの刺青オッチャンたちがずらりと横に並んで体を洗っているのを発見した。この時はさすがに「うわっ」と少々ビビッたが、しかし湯船に入ってゆったりとリラックスしつつ、改めておっちゃんたちの自慢のアートを鑑賞すると、「うーむ」と唸るほどにこれは大したものである。雲海を蹴散らすようにして上昇する龍、あるいは怒涛の滝をものともせず遡ろうとするコイ。……一心不乱に髪や体を洗っている男たちの両腕は絶え間なく動き、その動きにつれて隆起する筋肉の動きにより、背中の芸術はじつに生き生きと躍動する。眺めていて飽きない。「なるほど人体に描くと、こういう効果があるのか」と改めて感心する。

のぼせそうになったので湯船からは出たものの、ヘリに座ってそれとなく鑑賞を続行する。なにしろ相手が相手である。目を丸くして好きなだけジロジロと観察していいというものではない。面白いもので(「面白い」という表現はこの場合いささか問題のような気もするが……)右端の初老男は、早くもぼくの視線に気がついている。目の前の鏡を利用して、ぼくの方をチラチラと見ている。「さすがだなぁ」と感心してしまう。もしかすると彼のようなツワモノは、浴室に一歩入った瞬間に周囲の男たちの配置、年齢、体型、「注意すべきヤツかどうか」という点まで見抜いているのかもしれない。前回の「マグロおじさん」の醜態に比べて、まさに月とスッポン。やはり人間も動物である以上、「天敵」ほどではないにしても「敵」がいるといないでは、こうも体型に違いが出てくるものなのか……などと考えてしまう。

「要はスポーツだろ。スポーツをすればいいだけの話」といまあなたは思ったかもしれない。確かにそのとおりだが、しかしたとえば皇居をゆったりと1周するジョギングに「敵」はいない。だからジョギングはダメだとかそういうことではなく、自分の存在や行動に対して真っ向から対立する者の存在、これがあるとないとではやはり精神性に違いが生じ、結果としてその違いは体型にまで影響を及ぼしてくるのではないかとぼくは思うのだ。しかし人間には弱い一面がある。「気合だぁ、気合だぁーっ」と大声でわめいたところで、万人が有するコンプレックスから逃れることはできない。

そこである種の人々は、そうした弱い自分を鼓吹し自信を維持するために作戦を立てる。プレゼンテーションの朝には自分で「勝ちパンツ」と命名している真っ赤なボクサーパンツを履いて行ったりする。刺青にもそうした精神的高揚効果を期待している面があるのではないだろうか。うつ伏せ状態で、長時間の痛みに耐える。それはどんな決意なんだろう。自分では首を回しても見れない背中から腰にかけて、極彩色の美しい絵が彫り込まれている。それはどんな気分なんだろう。

その考証として参考になる映画がある。任侠映画ではない。洋画である。

「レッド・ドラゴン」(2002)。御存知だろうか。あのハンニバル・レクター博士登場の映画である。一躍有名になった「羊たちの沈黙」(1991)よりも11年も後に出てきた続編映画なのだが、物語(時系列)としては「羊たちの沈黙」よりもちょっと前の事件という設定になっている。この映画に出てくる殺人鬼が、じつは背中にレッド・ドラゴンを彫っているのだ。
興味深いシーンがいくつかある。彼は自らを超越し超人(あるいは彼が信じる神)となるために体を鍛え、レッド・ドラゴンが彫リ込まれた背中を何度も鏡で見る。その瞬間の彼の恍惚とした表情が忘れられない。神に近づく。神と一体となる。そうした願望が根底にあるならば、たとえそれが自らの体を傷つけ痛みを伴う行為であっても、むしろそれが当然の修行であるかのように思うのかもしれない。げに人間とは不思議な動物である。

…………………………………………………( 完 )

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