「あいつが殺ったんだ」
現場監督が口にしたのはキツネ男の名前だった。私はぶあついガラスのジョッキを口に運ぼうとしていたのだが、それが途中で止まるほど驚いた。
「……どうしてそう思うのです?」
「どうしてそう思う?」彼は笑った。「現場のヤツらはみな知ってる」
「……でも彼は」と言いかけてハッと口をつぐんだ。なにかというと恐喝しか頭に浮かばないような最低の男だが、だからと言って「約束を破っていい」ということにはならない。約束は約束だ。
それにしても不可解な話だ。キツネ男が犬を殺したのであれば、その動機はなにか。それになぜわざわざあんな話を私にする必要があったのか。さらに……私はすぐ脇のカウンター席に座っている現場監督をチラッと見た。……なぜこの人はこんな話をしつつ、さもおかしそうに笑っているのか。
大学生同士の単純明快なつきあいに比べ、大人たちはみな複雑怪奇な感情で動いているように見えた。もう数年したら自分もいやおうなく大学を出て社会に出なければならないわけだが……こんなわけのわからない思惑の錯綜する社会で、自分は本当にやっていけるのか。
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「大陸のヤツらはな、犬も猫も食う。……知ってるか?」
「いいえ」
「ヤツらはな、日本人とちがってなんでも食う。ヤツらが食わない4本足は、椅子だけだ」
なにかの旅行記で、それに近い話は読んだ記憶があった。中国人は白犬・赤犬と分けて犬を料理するという。まるで白豚・黒豚みたいな話だ。驚いたし、「なんてこった」てな感じで思わず眉をひそめるような嫌悪感が走ったが……「でも牛や豚の肉はなんとも思わなくて、犬の肉だとすごく気味悪く思う。この感覚は正常と言えるのか」といった疑惑がすぐに出て来たことも事実だった。
「つまり食べるために殺した、と」
「今回だけじゃない。以前にも一度やってる」
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キツネ男にはそうした前科があるらしかった。……しかし現場監督の話を聞いているうちに、その前科も今回の犬殺しも、「アイツがやったに決まってる。アイツは犬を殺して食べるのが好きらしい」という現場男たちの噂話にすぎないことが次第にわかってきた。少し気の毒に思ったが、「もうどうでもいい」という気分の方が強かった。
「香港のヤツらはな、みな鳩を食べる」
現場監督はこのテの話が好きらしい。
「アグネス・チャンが日本に来て公園を歩いているとだね、鳩が飛んできた。それを見てすぐにうまそうだ、食いたいと思ったそうだ」
私は絶句し、彼は爆笑した。
「……ま、それはともかく、近々ヤツを事務所に呼んで、じっくりと問い詰めてやろうと思ってる」
「問い詰めてどうするのです?……もしそれが本当なら、警察に突き出すのですか?」
「まさか」現場監督は笑った。「……そんなことをしたら、ヤツは恨みを抱く。恨みを抱いたら、なにをしでかすかわからない」
「じゃあ、どうするのです?」
「お前の弱みは握ったぞ、と教えてやるのさ。その上で、今までどおり使ってやるのさ。ああいうのは、そういう使い方が一番だな」
現場監督とは店の前で別れた。彼はもう1軒、行くつもりらしい。
「すまんが、1週間ほどしたらもう一度だけ事務所に来い」握手をした時に彼が言った。「なに書類にサインしてほしいだけだ。その時にヤツの結果を教えてやるよ」
……………………………………【 つづく/次回最終回 】
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