【 魔の目撃 】(12/最終回)

「あいつの女が殺ったらしい」
「……女?」
1週間前は「あいつが殺った」だった。しかも「現場のヤツらはみな知ってる」だった。1週間たって「あいつの女」というのが出てきた。もうわけがわからなかったし、わけをわかろうとも思わなかった。
「そうですか」

机上のサインペンや印鑑をさっさと片づけ始めた。今日ここに来た要件は完了したのだ。全部カバンに入れたら適当に挨拶をしてラッキーストライクを1箱プレゼントし、すぐに事務所を出るつもりだった。まさに「長居は無用」につきる気分だった。
現場監督は黙って私の様子を見ていたが、一言、「急ぐのか?」と聞いてきた。「そうです」とだけ返事しておけばよいものを、まだ社会での人づきあいに慣れていなかった私は正直に答えた。
「いえ、急ぐわけではないのですが、早く帰って、絵を描きたいと思います」
「ああなるほど」現場監督は笑った。「絵を描くのはそんなに楽しいか?」
「楽しいか、と言われればもちろんそうなんですが……なんて言うか、自分の世界に没頭できるのです」
「ふうん」

彼はそのことについてなにかを考えている様子だったが、ふと胸ポケットに指を突っこんで、ラッキーストライクをひっぱり出した。ところが1本も残っていなかった。「チッ」と短く舌打ちし、紙箱をクシャッと握りつぶして机上にポンッと放り出した。

握りつぶされたラッキーストライクを見た瞬間に、奇妙なエピソードが脳裏を走った。なにかの小説で読んだ話だ。広島に原爆を投下したB29のクルーたちは、その瞬間、「ラッキーストライク!」と叫んだ。その後、この煙草は米国勝利をイメージする煙草として米軍に愛されていく。パッケージが日の丸に似ていることもその一因だった。

私はラッキーストライクを出さなかった。
「すぐそこまで一緒に行こう。オレはこいつが切れるとどうにもダメでね」
現場監督は自分の方から立ち上がった。

…………………………………

「いまの世の中は、金がないとどうにもならん」
「はい」
現場監督が話そうとしている内容に興味はなかった。しかし彼が目指している煙草屋までの単なる雑談であることはわかっていたし、その煙草屋はどこにあるのか知らないが、刻一刻と接近しているはずだ。5分か、10分か、いずれそのあたりだろう。その後は晴れて自由放免、二度とここに来ることはないだろう。そうした解放感が幸いしたせいか、彼の言葉に真剣に耳を傾けていた。

「だからオレたちは金を得るために働く。それだけを考えておればいいものを、ついつい余計なことまで考える。もっと金を得るにはどうしたらいいか。もっとうまい手で金を得る方法はないか。そういうことだな」
「はい」
「さらに余計なことを考えるバカもいる。この女を手にいれるためにはどうしたらいいか。この女を追いはらうためにはどうしたらいいか」
キツネ男の話だろうか。よくわからなかったが、「どうでもいい」という気分が強かった。

「あるバカは自分の女が肉を腹一杯食いたい、犬でもいいと言い出して、それなら自分で捕まえてこい、捕まえてきたらオレが料理してやると言った。女は腹を立てて、本当にそれをやった。しかし犬がうるさく吠えたんで、グサリとやった」
声も出なかった。
「バカはそれを知って、こりゃ都合がいいと、女と別れることができると……」

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我々は立ち止まった。煙草屋の前だった。握手した後で現場監督は言った。
「いいか、人間は余計なことを考えれば考えるほど不幸になる。覚えておくといい」
「はい。色々とありがとうございました」

我々は別れた。私はまっすぐ前だけを見て歩いた。コンビニにも寄らなかった。視界の端に白いワンピースがチラッと見えたように思ったが、その方向を見もしなかった。

……………………………………    【 完 】

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