【 魔の湖底 】(11/最終回)

人が目の前の他者に対し圧倒的優位に立ったとき、「優位に立った」ということだけで満足せず、その劣位者をさらにいじめいたぶろうとする心理はいったいどこから来るのだろうか。なにを求めているのだろうか。
もちろんそうした屈折した心理は特殊なケースかもしれない。しかし「特殊なケース」として片づけてしまうには余りにもそうした事例が多い。古今東西、国家も人種も宗教もかかわりなくその事例は多い。「すべての人にその心理はある」と見る方が妥当かもしれない。ただ(その瞬間に)良心がうまく機能するかしないかだけの違いかもしれない。

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もちろんこの時、目の前の男に対し私は優位に立ったわけではなかった。男はかなり酔いが進行している気配だったが、いつなんどき豹変するかわからない危険性は十分にあった。なにしろこの男は数分前に私を恐喝していた。酔った勢いなのかもしれないが、たまたま食堂で出会った大学生に奇妙な話を聞かせ、そのあげくに「1万5000円を置いていけ」と要求するような男だ。
無視して席を立ったところで、この酔態ぶりでは足がもつれて追って来ることもできないだろうと予想はしていたものの、ふと思いついた「名刺の話」は意外なほどの効力を発揮した。名刺に記された文字が彼にどのような打撃を与えたのか、そんなことは当時の私にわかるはずもなかったが、「効果あり」と察知するだけの彼の態度の変化は十分に見てとれた。

私もまた酔っていた。男の変化を見て勝ち誇ったオオカミのような気分になったが、「いやいやここで調子に乗ってたたみかけるようなことを言ってはまずい」と自分をいさめるぐらいの自制心は(かろうじて)あった。
「隙あらば逃げん」の選択をまだ捨てきれていなかった私はほんの少し浮かしていた尻をもう一度元に戻した。自分のビールグラスに注いでいた2センチほどのウィスキーを一気に喉に流しこんだ。焼けつくような、痛みにも似た衝撃が喉にビリビリッと走った。率直に快感を味わい、「この衝撃はビールにはないな」と久々に飲んだウィスキーのアルコール濃度を絶賛したい気分になった。「タンッ」と食堂中に音が響くような勢いでグラスを置いて男を見たが、期待したような態度の変化はなかった。

男のおちょこウィスキーがまったく減っていない状況を見定めた上で、私は手を伸ばしてダルマをつかんだ。自分のグラスにまた2センチほど勝手に注ぎ、また男に視線を戻した。男は相変わらずの無言だった。「義眼かもしれない」と疑っていた左目は全く動かず、右目もどこを見ているのかよくわからなかった。

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「……さてどうする?」
互いの沈黙に悩み始めた矢先、人の気配がした。思ったとおり、宿の人が数人、調理場に戻っていた。どこか別の部屋で夕食でもとっていたのだろう。
「やれやれ助かった」という気分だった。私はもう一度ウィスキーを一気に喉に流しこみ、今度は静かにグラスを置いた。黙って席を立ち、調理場に自分の盆と食器を返しにいった。

宿の人に盆を渡しつつ、「あのお客ですが……」と声をかけた。
「かなり酔っているようです。もう飲むのはやめさせた方がいいかもしれませんね」
宿の人もチラッと男を見た。
「あの人は知ってます」
意外だった。なんとこの宿の常連なのか。
「いつもああです。ほっておきましょう」
私はうなずいた。なるほど。いつもああなのか。

そのまま部屋に戻って爆睡し、翌朝は午前7時の朝食開始時間に食堂に行った。男が座っていた場所を見ると地図や本はそのまま残されており、男だけが消えていた。宿の人がなにも言わないので、私もなにも聞かなかった。

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朝食をとりつつ、みそ汁の中のうすいワカメを見て、ふと妙なシーンを連想した。腐敗せず真っ白にふやけた顔面の男が暗黒の湖底でゆらゆらと揺れていた。腰から下は湖底の泥に埋もれており、両腕は暗闇でなにかを探ろうとするかのように上下に揺れていた。緩やかな水流により上下の歯がカタカタとかすかな音をたてていた。
「湖底の死体博物館」という言葉が頭をよぎった。その幻想にとりつかれた男が何度もダイビングして湖底を探索し、ついに行方不明になるという小説はどうだろう。スティーブン・キングになったつもりで書いてみようか。
「……うん、悪くない」と私はつぶやいた。

……………………………………    【 完 】

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