【 台湾魔談 】(4)

【 異国徘徊 】

会話がまったくできない異国の街をひとりで歩く。これをやったことがない人は、ぜひ一度やってみたらいい。この一種独特の不安感、疎外感、孤独感。それは国内ではまず味わえない。「なにを好き好んでそんな気分を味わう必要があるのか、そんな経験はまっぴらだ」と一笑する人がほとんどだろう。しかし一度やる価値はある。特に20代30代の若い人にはぜひお勧めしたい。

なにしろ今の時代の日本人は安全すぎる。「そんなことはない」と異をとなえる人もいるだろう。街を歩けば車が突っこんでくるかもしれず、工事現場の塀が倒れて来るかもしれない。街では安全なところなどひとつもない。確かにそのとおりだとは思うが、単身・異国という状況は「いまトラブったら自分はアウトだ」という危機感が肌にヒリヒリと滲みるほどの切迫感をもって迫ってくる。一刻も早く「言葉が通じる母国」に逃げ帰りたいという本音と、いやいや、この貴重な体験を満喫しなくてどうするという意欲の板挟みとなる。

しかしこの過酷状況が二日経ち三日経ちと経験を重ねているうちに、クソ度胸とでも言おうか、不屈の精神が自分の内部にジワジワと芽生えてくるのを感じる。それは安全な母国で学んで得られるような類のものではなく、極めて動物の自己生存本能に近い類のものであるように思われる。飢餓状態に陥った人がもうダメかと諦めかけた瞬間に、「なんとまだ余力があるぞ」と自分の潜在的な体力に驚くことがある。まるで体内のどこかに長年にわたり隠され続けてきた予備タンクを発見したような喜びだ。それに近い。

【 亜熱帯植生 】

さて本題。
大飯店の看板をさがしながら台北駅に向かった。大飯店とはホテルのことである。「大飯食らい専門店」ではない。昨今はテレビのスイッチを入れると「大飯食らい女子」が3人ほど並んで驚くべきスピードで大飯食らいの競争をしていたりするのだが、ああいう場面を見てゲラゲラ笑っているスタジオのゲストたちを見ると「どうして日本人はこんなにバカになってしまったのだろう」と語っていた司馬遼太郎氏の言葉を連想するのは私だけだろうか。

それにしても台湾は暑い。日本じゃ九月下旬と言えば、穏やかな秋晴れが続き、朝夕には気温が冷えこむ時もあったりで「そろそろ長袖を出しておいた方がいいか」といった時期だ。しかしここじゃ夏の盛りの灼熱地獄に逆戻りしたような熱気だ。

私はダークグリーンの70リットルザックを担いで歩いた。このザックの重みにも、長時間の歩きにも、穂高で鍛えたささやかな自信があったはずだが、なにしろ標高2500mクラスの涼しい穂高をゆったりと歩くのとは大違いで、ここは平地どころか、沖縄よりも赤道に近い街だ。強烈な日光が肌をチリチリと焦がすようにさえ感じる。
半時間ほど歩いて木陰を探し、重いザックをドサッとおろしてため息をつき、横倒しにしたザックにもたれるようにして歩道に座りこんだ。その繰り返しだった。

投げ出した足の先の登山靴をふと見ると、先端部分からうっすらと煙が出ている。これには驚いた。猛烈な温度になったアスファルトでゴムが焦げているのだ。あわてて水筒を出して水をかけ、「灼熱地獄の国だな」とつぶやいた。これじゃ犬の散歩もできないだろう。もっともここでは犬を散歩させている人などほとんど見かけない。その理由はなんとなく想像がつくのだが、その件はもう少し先に述べたい。

ふと頭上を見上げると、まるで数本の木がギリギリとお互いを縛りあげたようにからまったような樹木から、まっすぐに垂れ下がった棒のような枝が何十本もブラブラと揺れている。一見して「うわっ、亜熱帯!」と密林植生を連想させるような樹木だ。これは「ガジュマル」という木で、ブラブラと垂れ下がっているのは「気根」だと聞いたことがある。「気根」とはまるで武士道に出てきそうな言葉だが、むろん武士道とはなんの関係もない。

それにしても日本の木を見慣れた目には、この、五〜六匹の大蛇がからまって互いを締め殺そうとしているような姿はどことなくサディスティックで不気味だ。「どういう性格の木なんだろう」と疑うような樹木だ。
「邪悪な木」というのは存在するのだろうか。映画「スリーピーホロウ」に出てくる木を即座に連想するのだが、もちろんそこにはその木を巡っておぞましい行為をした人間が絡んでいる。人間がいなければ「邪悪」などというものは存在しないのかもしれない。キリスト教がなければ悪魔が存在しないように。

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【 酒泉街 】

「酒泉街」と書かれた地名看板を見た。これはまたなんと魅惑的な名前ではないか。私のような酒飲みにとってはついフラッとまぎれこんでみたくなるような街だ。まだ一杯やる時刻ではなかったが、屋台に座った。即座に出てきたラミネート加工の「写真付きメニュー」を見て指でさし、麻醤麺(マーチャンメン)と、台湾ビールをオーダーした。

メニューを差し出したおばさまが一瞬、けげんな表情をした。私は自分の胸に親指をむけて「リーペンレン」と言った。北京語で「日本人」という意味である。「北京語と台湾語はかなり違う」という話を聞いたことがあるが、とりあえず台湾のどこに行っても、この仕草と「リーペンレン」で押し通した。通じないことは一度もなかった。おばさまはにっこりと笑った。

台湾の街には屋台が多い。「そこらじゅう屋台だらけ」といった光景だ。そこらじゅうでなんか食っている。どの方向を見てもなんか食っている。「食う」ということに対してあくなき貪欲さとでも言おうか、そんなものを感じる。まあ日本人も似たようなものだが、こっちの人の方がさらに旺盛であるような気がする。

缶ビールが出てきた。「待ってました」とばかりに手を伸ばし、握った瞬間に衝撃が走った。常温!‥‥‥日本じゃ客にこんなものを出したら暴動だ、なんてことはないが、まあ黙って飲む客などありえない。しかし「この国の屋台じゃ、これが普通なのか」と疑いつつ周囲を見ると、みな黙って缶ビールを飲んでいる。

席を蹴って日本に帰りたい気分になったが、グッと我慢して常温缶ビールを飲んだ。麻醤麺が出てきた。中太の縮れた麺に細く切ったキュウリとゴマだれが乗っかった料理で、じつにうまかった。私の不機嫌はようやく直った。マーチャンメン(35元)と350cc缶ビール(45元)の合計で80元。腹いっぱいになってざっと320円という安さだ。

台北に入った。大飯店をさがしてあちこち歩き回り、看板を三軒見つけて入ったが、やはり満室。「状況は極めてキビシイ」とつぶやかざるをえない。歩道に座ってしばし考え、ついに台北の大飯店をあきらめた。「台北駅に行こう」という結論だった。今夜のお泊まりは台北駅かもしれない。

……………………………………    【 つづく 】

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