エドガー・アラン・ポー【 4 】雑誌社徘徊時代

【 正式に結婚 】

エドガー・アラン・ポー24歳。この血気盛んな(文才にも恵まれた)若い編集長は、従妹ヴァージニア・クレム(11歳)に求婚。当然ながら周囲から猛反対を受け、飲酒&(酒場での)トラブルが急増した。

この時期のポーを主人公にした映画はどうだろうか。監督は「ワンス・アポン・ア・タイム」のセルジオ・レオーネで、音楽は当然ながら、エンニオ・モリコーネでなくてはならない。
ポーは誰に演じさせるか。それはもうロバート・デ・ニーロでしょうと言いたいところだが、79歳になっちゃってるので、いくらなんでも24歳の青年役はちと無理か。「タクシードライバー」(1976年)の頃のデ・ニーロ(32歳)だったら最高なんだけどね。

ヴァージニア・クレム

ともあれ、生活が荒んだポーは『メッセンジャー』誌編集長も1年足らずで辞職。最悪と言っていい状況だが、彼はヴァージニアをあきらめない。なにかと酒癖の悪い男だが、女性に対する執着は(この後の彼の人生を眺めても)相当に強い男であったように思われる。

1835年。ポー26歳。ヴァージニア(13歳)とついに結婚。『メッセンジャー』の創刊者に交渉して再就職した。
よくもまあ、再就職できたものだ。「ポー不在の『メッセンジャー』人気がガタガタに落ちた」「なにはともあれ結婚したので、以前よりは少しはマトモになるだろうと期待した」てなところだろうか。ポーとしてもここは一番、なにがなんでも一旗あげないではおれない心境だっただろう。

かくして創刊者の期待は的中した。『メッセンジャー』誌はアメリカ南部でトップクラスの文芸雑誌となった。ポーはついに「南部で一旗あげる」快挙を成し遂げたのだ。

1836年。ポー27歳。彼は知事や親戚縁者を招いて正式な結婚式を挙げた。このあたりが彼の人生の絶頂期かもしれない。異論もあるだろうし「27歳で絶頂期?」と改めて驚かれたかもしれない。しかしポーの人生はたったの40年間なのだ。この時点で「あんたの砂時計はあと13年しかない」と運命の女神にささやかれたら、彼はどう思っただろうか。

【 雑誌社を変遷 】

『メッセンジャー』誌は好調だったが、ポー編集長は次第に創刊者と対立し始める。創刊者のおかげで再就職できたんだし、雑誌というホームグラウンドあっての執筆&名声なんだから、もう少し辛抱できなかったのだろうかと思ってしまうのだが……
・発行部数は順調に伸びているのに、昇給がないやん。
・シロウトの創刊者が編集にいちいち口出しするんじゃねえよ。
…‥と、こうした理由がポーにはどうにも我慢できなかったようだ。彼は再就職から1年で『メッセンジャー』誌を去った。

その後……
・ニューヨークに引っ越し。しかし打診していた『ニューヨーク評論』誌に不採用。
・『アーサー・ゴードン・ピムの物語』を出版し話題となったが、売り上げはイマイチ。
・フィラデルフィアに引っ越し。(生活苦が理由だったらしい)

1839年。ポー30歳。彼は『ジェントルマンズ・マガジン』誌の編集者となった。
この雑誌は喜劇俳優が創刊したらしい。つまりこの時代のアメリカ北部は、ある程度の名声と財力さえ手に入れれば、喜劇俳優であろうがなんであろうが「よおし、いっちょオレも雑誌を出してみっか」といった「雑誌創刊がステイタス・シンボリックな時代」だったのだろう。ポーはまさにその時流に乗った働き盛りだったのだ。

しかしまたそうした時代の潮流が裏目に出て、結果、ポーは次々に雑誌から雑誌へと渡り歩くことになっていく。案の定というか、この雑誌でも創刊者の喜劇俳優と対立。翌年に辞職。その後、『グレアムズ・マガジン』誌の編集者となった。この雑誌の創刊者は弁護士ジョージ・グレアムである。なので『グレアムズ・マガジン』なのだ。

今度は弁護士が創刊者?
ポーも小説家に専念しておればよいものを、なんで雑誌編集にこだわるのかね。そこまで雑誌が好きなら、自分で創刊したらええやん。…‥などとあなたはいま思ったかもしれない。私もそう思う。

というわけで、次回は「自分で雑誌を創刊しようとして、結局は失敗したポー」を語ろうと思う。彼の砂時計は、本当に残念なことだが、あと10年しかないのだ。

【 つづく 】


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