【 あかんものはあかん 】
空腹ががまんできないことを若い僧に訴えて以来、かずくんは変化した。驚くほどに(その当時の私は本当に驚いたのだ)それは大きな変化だった。極度の緊張、とってつけたような(僧に見せるための)模範的態度、そうしたことがスッと消えてしまった。彼はとうとう限界に達し、僧にそれを訴えたことで、なにかが吹っ切れたのだろう。結局、訴えは無視されたのだが、そうした結果よりもむしろ「やっちまった感」が彼を救ったのだ。
かずくんと私は黙々と朝食の配膳を手伝った。玄米のおかゆ/山菜の味噌汁/たくわん3キレ。おかゆには黒胡麻が浮いていた。細かく刻んで薄い味噌汁に入っているのはなんの山菜か私にはわからなかった。食事中の会話は禁じられていたのでこの献立に対する感想さえかずくんと話をすることはできなかったが、私はそれとなく彼の様子を観察しながら朝食を平らげた。「大丈夫か?」といった疑惑がまだ残っていたのだ。しかしその心配はもう必要なかった。彼は黙々と礼儀正しく食べていた。
なにしろこの程度の献立だ。「お肉もお魚もあかんのやな」と自分で悟るしかなかった。なんで「あかん」のか。その理由は当時の私にはさっぱりわからなかったが、この山の禁欲生活に慣れつつあった。「ここではあかんものはあかんのや」といった圧倒的・問答無用的・禁欲生活に従うしかなかった。
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ちょっと余談。
延暦寺から戻ってきた時、私を見た母の驚きようは、それはもう大変なものだった。もともと痩せていた私がさらに痩せてガリガリになって帰ってきたからだ。母は私の手をとって半泣きになった。すぐになにかを食べさせようとしたが、「いらん。これでええねん」と言って私は逃げた。なにかを出されて無理にそれを食べようとしたら、胃がもたれてそれこそ死ぬような思いをすることがわかっていたからだ。ガリガリは私にとってむしろベストコンディションだった。当時の私は(いまもそうだが)「みてくれ」には全く興味がなかった。痩せようが枯れようが「これでええのや」という自分の結論が最優先だった。
父は私を見て「おまえもうミイラになったのか」と言って笑った。
また戻ってきてからというもの、私は無口がますます強くなった。食事中も一言も話をしない。母は大いに心配した。もともと母は「延暦寺お預け」に反対だった。「それ見たことか」ではないが、父を責めた。
「ますます変わった子になってしまうと言うたやんか!」
責められた父も閉口した。
「いくぶん大人になったような気もする」
そう言い残して、さっさとアトリエに逃げていった。
【 後 日 談 】
さて15年後のつづき。
「いい嫁さんをもらって」とかずくんは言った。「男の子を産んでもらわんとあかん」
いくら(彼のおごりで)酒の席とはいえ、これにはあきれた。「なんだコイツは。戦国時代かよ」と思ったが余計なことは言わず、笑ってビールを飲んだ。
「……で、どうやって探したらええやろか?」
「お見合いがいいんじゃない?」
「……お見合いか」
太った腕を組んでなにやら考えている。
「余計な苦労をしないですむよ。双方とも会ってる目的が最初からはっきりしてる」
「……まあそうかもしれへんけど」
なにやらごちゃごちゃと言い始めた。要するに「あのお坊さんはお見合いをした」と人に笑われるのが嫌らしい。
「笑いたいヤツには笑わせておくさ」
さらになにやらごちゃごちゃと言い始めた。要するに恋愛をしたいらしい。
「お見合いだって立派な恋愛だよ」
たぶん彼の目から見れば、大学に行った私の周囲には年頃の女性が大勢いて、その結果、女性との接し方も心得ていると思ったのだろう。そのコツのひとつやふたつぐらい、教えてくれたっていいじゃないかという腹だったのだろう。一方の私はそうしたマニュアル的な考えがそもそも嫌だった。コツなんてあるか。そんなものがあるはずがない。そう言ったのだが、その一方で、わざわざ酒の席を設けて会いに来てくれた旧友に対し「コツなんてあるか」とがっかりさせて帰らせるのはいかがなものかといった葛藤もあった。
「コツと言えるほどのものじゃないが」と私は切り出した。「ほう!」と彼は身を乗り出した。
初デートとかそうしたドキドキ状況ではよくあることだが、彼氏サイドはとにかく自分のことを知ってもらいたくて、やたらに彼女に自分のことを話したがる傾向がある。
「まあ、せやろな。わかるな」
彼はしきりにうなずいている。「コイツならやりかねん」と私も思う。
「そこをグッとおさえて、だね……」
自分のことをごちゃごちゃと話すのではなく、静かな口調で彼女のことを聞いた方がいい。好きな食べ物はなにか。感動した映画はあるか。好きな俳優はいるか。
「おおっ、なるほど!」
彼は何度も深くうなずいていた。
【 つづく 】