【 魔談482 】海底二万海里

【 唯一の持参本 】

以前にも触れたが、延暦寺で腕時計は禁止だった。延暦寺に到着した時点でかずくんが自分の腕時計を外してリュックサックに入れたことは私の日記に書いてある。私はどうだったのか。そのことはなにも書いてない。たぶん私はその当時、8歳の時点で腕時計を持っていなかったのだろう。
最初に自分の腕時計を持ったのはいつだったか。どんな腕時計だったか。思い出してみようとしたが、だめだった。さぞかし嬉しかっただろうと思うのだが、記憶にない。たぶん新しく買ってもらったのではなく、父からお下がりをもらったのだろう。

それにしても腕時計が禁止というのはいかなる理由なのだろう。「時刻を知る」ことは修行の妨げなのだろうか。
時計のない生活は「何時になったらこれをする」という予定が全くわからない生活だった。学校のカリキュラムとは真逆の生活だ。予定が全然立たない上に「次にすること」は若い僧がいちいち告げに来る。
思えばかずくんと私にとってここでの生活は、自発的な行動がないに等しい生活だった。修行により内面を磨くことのみが、ここでは唯一の自発的な行動ということなのかもしれない。しかし8歳にそれが理解できるはずがなかった。

かずくんはともかく、私は延暦寺にいながら修行のなんたるかも全然わかっておらず、修行するつもりなど全くなかった。「禁止だらけの変なところで、次にやることはお坊さんが言いにくる。それさえちゃんと守ってたらええのや」といった解釈だった。
かずくんと違って空腹が全く苦痛ではない私にとっては、ここでの「言いなり生活」はまんざら厳しい生活ではなかった。食事にしても、かずくんにとってはおそらく内容も量も大いに不満だったに違いないが、私はすぐに慣れた。「食事も修行」とは全然思っていなかったが、出されたものを無言で食べて、食べ終わったら白湯をもらって丁寧に食器をぬぐい、正座のまま全員の食べ終わりを待つ。このじつに味気ない食事作法もたちまち慣れた。慣れてしまうと不満などなかった。

「本は持ってきましたね?」
その日、何時ごろだったか定かでないが、例によってかずくんと私の前に音もなくスッと座った若い僧がそう聞いてきた。我々がほぼ同時に「はい」と答えると「ここに持ってきなさい」と僧は言った。

かずくんは小学生用の辞書を持ってきていた。辞書を持ってくるという発想は私にはまったくなかったので驚き、「さすがやなぁ」と感心した。しかし後に聞いた話だが、1冊限定の本を持参するにあたり「辞書がいい」と彼に入れ知恵したのは父親である篠田先生だった。私は自分で選んで「海底二万海里」を持ってきた。その時期、私はこのSFを熱愛していた。

僧はまず辞書を手にとった。パラパラと数ページをめくってから「しっかりと勉強しなさい」と言って辞書をかずくんに戻した。次に僧は「海底二万海里」を手にとった。やはりパラパラと数ページをめくり、挿絵にふと目を止めた。
「これは潜水艦のお話ですね?」
「はい」と私は言った。大好きな物語であり、父に連れられて映画も観ていた。その映画からしばらくして買ってもらった本だった。すでに一度、最後まで読んでいたので内容を話すことはいくらでもできた。しかし私は「はい」とのみ答えた。じつはこの若い僧に微妙な反感を抱いていた。「こんなヤツにこの話をするもんか」といった気分だった。
若い僧は本をパタンと閉じ、無言で私に返した。なにも言わなかった。その時に彼がなにを思ったか、それはいまだにわからない。
「雨が降りそうなので」と僧は言った。「庭ではなく、後でお堂の掃除をしてもらいます」
我々は声をそろえて「はい」と言った。
「また後で呼びにきます」
彼は音もなく静かに立ち上がり、部屋を出ていった。

「呼びにくるまでここで本を読んでたらええの?」
「そうや」とかずくんは言った。
「机とかは?」
「ない」
彼は正座をとき、坐禅の座布団をとってきた。坐禅の足の組み方をし、両手で本を持った。
「こうやって読むねん」
「しんどい読み方やな」
「せやな」
彼は同意し、縁側に出て行って足を投げ出した。辞書はわきにポンと置いた。
「こうやってぼうっとしてるのが一番や」
私もそれにならった。縁側に出て足を投げ出し、そこで「海底二万海里」を読んだ。

最後にちょっと余談。
じつは以前、魔談で「海底二万海里」を熱く語っている。
「魔の船」(2021年3月5日)
この物語をご存知ないかたは、まあ10分もあれば読めるエッセイなので、ぜひ御覧いただきたい。

「海底二万海里」は、じつは復讐がひとつのテーマとなっている。明るく健全な児童文学とは言い難い。高性能の潜水艦を自在に操って軍船を次々に沈めていくネモ艦長は謎めいた男だが、復讐に生きている。8歳の時にこのSFと出会った私にとってもっとも衝撃的だったのは「未来は明るくない」ということだった。「海底二万海里」は未来のSFではない。潜水艦も魚雷もまだ存在しない時代にいきなり出てきた高性能潜水艦をめぐる物語だ。それまで私が読んでいた「少年少女SF」が描く「なにもかも便利な明るい未来」とは全く異なる、暗い情念にとりつかれた男の物語だ。これはショックというよりも「ああ、そうなのか」といった漠とした落胆を私に植えつけたように思う。
「海底二万海里」を抱えて叡山から降りてきた私は「明るい未来を描いた少年少女SF」を全部捨てた。

【 つづく 】


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