魔の絵(18/最終回)

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仕事に集中しなければならない夜だった。右手でマウスを動かしつつ、左手のサンドイッチで夕食を済まそうと予定していた。賭博ではないが「まさにサンドイッチ伯爵の夜」という気分だった。スケッチブックに構っている余裕などない。ミルでやや多めにコーヒー豆をガリガリと砕きながら「この件は終了した。すぐに見る必要はない」と自分に言い聞かせた。

スケッチブックの入った茶封筒は仕事机の上に放り出した。放り出したものの、じつは茶封筒を手にした時にあることに気がつき、「おやっ?」と不可解に思ったことがあった。茶封筒は新しいものに交換されていた。これがなにを意味するのかさっぱりわからず、それを知りたいためにすぐにでも開封したい衝動にかられたが……「いや、だめだ。今夜はまずい」と思い直して机上に置いた。

午後10時ごろ、目がかなり疲労してきた。データを保存し、画面を一度落とした。風呂に入ろうかと思ったが、ゆったりと湯船に浸かっている余裕がない。シャワーで気分転換を計った。お湯を浴びながら「もう3時間もがんばれば、なんとか終わりそうだ」と思った。午前1時にはベッドにもぐりこめるだろう。明日は6時に起きて専門学校に出講する日だが、5時間の睡眠はなんとか確保できそうだ。

5時間は寝られそうだとわかり、気分はかなり楽になった。さて後半。がんばって0時40分に終わらせよう。午前1時までの20分間は、レタスで包んだチーズでも肴に、ゆったりとバーボンをやるとしよう。……チラッと茶封筒を見た。これも肴にしてやる。

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「スケッチブックを肴にバーボン」という自分なりの一種の褒美が気に入ったせいか、後半の仕事は思いのほかに集中でき、大いにはかどった。0時30分、安堵の長いため息を漏らしつつ完了したデータを保存し、画面を落とした。いそいそとレタスと6Pチーズを用意し、お気に入りのウィスキーグラスに氷をガラガラと入れた。バーボンをたっぷりと注いでしばし琥珀色を鑑賞し、最初の一口で手応えのある味を満喫した。

「さて」という感じで茶封筒を手にした。スケッチブックを出した瞬間に「おやっ?」と思った。微妙に軽く感じたのだ。開いてみると、今までの交換作品とメッセージは全部はがされていた。最初の1ページには「えっ?」と驚くような文字が並んでいた。

いままでありがとうございました
ほめてもらったことはなかったので
うれしかったです わたし

文字は全部ひらがなで、「、」も「。」もなく、筆圧の強いボールペンでぐいぐいと書いてあった。最後に「わたし」と書かれた3文字を見つめつつ「これは誰だ?」と一瞬疑い、次の瞬間に「あっ!」と悟った。7歳年下の、ダウン症の、妹。
「ええと長女は高1で、つまり16歳だから……」と計算した。妹は9歳ということになる。妹が姉に代わって、最後の御礼を書いているのだろう。姉はいったいどこに行ってしまったのか。それはわからなかったが、ダウン症とはいえ、姉よりも素直な(と、信じたい)妹が書いている文字としか思えなかった。

ふと想像した。4人の家庭教師たちが言う「気味の悪い絵」とはもしや……妹が姉に代わって描いた絵なのかもしれない。家庭教師たちの指導に愛想をつかした長女がさっさと現実世界から逃げ出し、それを見かねた妹が描いた絵に仰天した家庭教師たちが「気味の悪い絵」と表現したのかもしれない。
さらに想像した。スケッチブックを持って外出したのも、もしや……姉ではなく妹だったのかもしれない。どこに行って誰に見せたのかわからないが、「姉の行動としてはありえない」ことでも「妹の行動としてはありえる」のではないか。

いまにして思えば、この想像あるいは可能性を踏まえた上で「まなみ」を指導することがもしできれば、あるいは彼女を救うこともできたかもしれない。しかし現実的に、当時の私ではそれはまず無理だった。いまの私でもこの問題はあまりにも複雑すぎて、やはり無理だ。

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その後半年ほど経過して、こんな出来事があった。この話はこれで終わりとしたい。

例のミスドでオールドファッションを食べていたら、すぐ脇の大きなガラス窓からコツコツという音が聞こえてきた。見ると笑顔のお坊さまがそこにいた。軽く手をあげて挨拶し「いつぞやとは逆だな」と苦笑していると、彼は店内に入ってきてドーナツをオーダーし、さっさと目の前に座った。皿には(ちょっと驚いたことに)3種類も(ものすごく甘そうな)ドーナツが乗っていた。

「たぶんまだご存じないと思いますが……」と彼は言った。「先週、娘さんは亡くなりました」
お天気の心配でも話すような口調だった。あまりのことに相槌さえ打てなかった。
「色々とありまして……」と彼は続けた。身内だけの家族葬にし、その後、両親は引っ越した。なんと外国に引っ越したという。
黙っていると、彼の方から聞いてきた。
「どこの国だと思います?」
「……さあ、見当もつきません」
「まあ、いいでしょう」と彼は笑った。信じがたい早さでドーナツ3個をあっという間に平らげ、「……ではちょっと急ぎますので」と言い残して、さっさと店を出て行った。

……………………………………    【 完 】

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