ドキュメント映画が公開されることが多くなった。知らない世界が見られるので、チラシを見たりしては観たい気持ちが湧くが、本数も多いし、なかなか多くは見られない。賭けのように選ぶしかない。
そんな中、期待以上に面白いものに出会うと本当に嬉しい。先日も上映最終日に何とか時間を作って見たら素晴らしくて数週間経ってもまだ余韻が残る映画に出会った。インドネシアのクジラ漁を描いた「くじらびと」という映画である。
インドネシアのラマレラという人口1500人の小さな村ではまだ、舟に乗る男たちが鯨を銛(もり)で突いて捕獲する漁法が続いている。鯨はマッコウクジラ。
監督は写真家でもある日本人の石川梵。時間を掛けてこの村に通って、信頼される人間関係を築き上げたのだろう。映画を見ていると分かるが単なる好奇心でなく、漁を含めて、この村の生活の仕方や文化にリスペクトを払って撮った事が感じられる。監督も船に乗せてもらってカメラを回していて臨場感ある圧巻の映像が展開する。
映画の終盤30分ほどの漁の描写が凄い。大海原を泳ぐ鯨を見つけて、村人手作りの10人乗りの小舟で追い、舟の先端に乗るエース格の銛打ちが銛を鯨に投げつける。鯨の流す鮮血で海が赤く染まる。鯨は暴れて、船に体を打ちつけたりする。
船上の監督のカメラだけでなく、ドローンで上空からも撮る。見ていて、アドレナリンがぐわーと出る。凄い。段々と、何とも言葉で言えない感覚になる。きっと、これをこそ、壮絶と言うのだ。作り物でない生の迫力。
海辺で村人が総出で鯨を解体する時には祝祭感がある。役割や仕事の貢献度でもらえる部位が違う。しかし、寡婦などの弱者にも分け与える共同体の優しさがある。そこがとてもいいと思う。年に10頭取れれば村人が生活出来ていくのだそうだ。
村人たちはクリスチャンで敬虔でもある。実は、鯨を捕らないと、作物が育たない村であり、住民たちは飢えてしまう。だからこそ、生きるために真剣に鯨に向かい合い(命懸けの行為だ)、海の生き物の命をいただくのだ。そこに厳粛さを感じる。
上映後、場内何か所から拍手が起きた。拍手を経験したのは、2013年に見たインド映画「きっと、うまくいく」以来。とても嬉しかった。劇場を出てからも、エモーショナルな感覚がしばらく続いた。
ついでながら、「ザ・コーブ」(2010年公開)と言う和歌山県太地町のイルカ漁を批判した映画を思い出した。思い出すのも不愉快なレベルの低い映画だった。完全にイルカ漁を悪者扱いにして一方的に断罪する視点で撮った映画だ。優れたドキュメントとは、様々な視点や事実を提示して、観客に考えさせて判断させる映画ではないか。
好きな映画をもう一本!
「9.11」が、チリの人たちにとって、ニューヨークのテロの日でなく自分たちの国で1973年にクーデターが起きた日であることを長らく知らなかった。社会主義政権であったのに、アメリカCIAの援助を受けて、将軍ピノチェトが遂行した。その後の、ピノチェトによる人権抑圧の圧政で多くの人が亡命を余儀なくされたが、フランスに暮らすドキュメント映画監督パトリシオ・グスマンもその一人である。
彼の新作「夢のアンデス」は、国土の80パーセントを占める雄大かつ峻険な岩山、世界最長の山脈アンデスの威容と、首都サンチャゴに暮らす芸術家たちを交互に映す。
芸術家の中に映像作家がいて、彼が長年に渡って撮りためてきた、人々が軍事政権に反対してデモをし、そのため警察の容赦ない暴力で取り締まられる映像が映し出される。
初めて知ることばかりだったが、チリはアメリカの新自由主義経済理論を取り入れ経済成長を遂げたものの貧富の差は大きくなり(日本も似ている!)世界の半分の量を産出していた国家資源たる銅の産出も外国の企業に支配されてしまった。経済学者たちは政府の要職についている。
見ていて、監督の憤怒、望郷の念、諦念が伝わってきた。監督は静かで惻々たるナレーションを担当している。彼の夢は、平和だった少年の頃の、人々が幸せだった生活を取り戻したい、という事であった。街には奇跡的に監督が少年の頃住んでいた家が残っている。しかし、それは、外側だけで、中はもう荒れ果ててしまっている。無残だ。
しかし、チリを離れて40年以上も経つのに、依然として、チリの映画を作り続けるのは、静かな執念と呼ぶしかない。
(by 新村豊三)