瀬戸内寂聴と井上光晴を描く「あちらにいる鬼」

昨年99歳で亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴と作家井上光晴との親密な関係はよく知られている。その二人の関係を描く、井上の娘である直木賞作家井上荒野の小説「あちらにいる鬼」が今回映画化された。
脚本が荒井晴彦、監督が廣木隆一、主演の一人が寺島しのぶと好きなメンバーが揃うので、楽しみにして公開初日に駆け付けた。

「あちらにいる鬼」監督:廣木隆一 出演:寺島しのぶ 豊川悦司 広末涼子ほか

「あちらにいる鬼」監督:廣木隆一 出演:寺島しのぶ 豊川悦司 広末涼子ほか

率直に映画の感想を言うと、長い2時間半の映画は、2時間は残念ながら期待したほどでなく平板で、しかし最後の30分は大いに盛り上がるという意外な結果だった。
前半の平板さの原因がやや散漫なシナリオにあるのか、出演者の演技にあるのかよく分からない。演技で言えば、まず、井上光晴(映画の中では白木篤郎という名)を演じる豊川悦司に魅力がないのだ。後述するが井上を描いた記録映画があり、その記録映画に登場する井上は、男女関係について勝手なことをやっていても何と言うかチャーミングで人間くさく可愛げがあるのだが、残念ながらトヨエツにはそれがなく何かキザなだけだ。私にはそう映った。また、寂聴(映画では みはる)を演じた寺島しのぶも、出家するほど悩み、のたうったであろう苦しみが出てこない。

あれえ残念だなあと思っていると、みはるが寺で剃髪するあたりから映画が段々と良くなってくる。剃髪の日、白木が東京から密かに寺に来ているが、夜に坊主頭のみはるが白木の部屋に忍んで逢いに来る。その姿は哀れさと共にちょっと切なさがある。(剃髪は本物である。バリカンと剃刀でじょりじょり切られる。寺島の女優魂や、よし)
その夜も白木は電話で妻にウソをつくのだが、妻は、その後、そのウソに対する意趣返しと思えるある行為を取る。この辺から、段々と、映画の主役が妻に移っていく。夫の行為に耐えていて、しかも献身的で(夫の原稿の清書までする。二人の子供を育てる。料理も上手い)地味で何の感情も見せなかった妻笙子(演ずるは広末涼子)の内面が伝わってくる。内面に燃えるような激しいものをもっているのは実は妻なのだ。

演出も段々と冴えて来る。こんなシーンがある。井上=白木は1992年66歳の時、病気で亡くなるが、死の直前の病室でのシーンでは、ベッドの横に妻とお寺からやって来たみはるがいる。荒い息をする白木は画面に顔を写さず、カメラは白木の目になり、手を握り合う右に僧侶のみはる、左に妻の笙子を写す。映画ならではの演出だ。亡くなった後、病院の屋上ではらはらと泣く笙子にカメラが緩やかに寄っていく。
みはるはタクシーでその病院を後にするが、タクシーに乗る彼女の顔から涙が落ちる。ここに至るや、ああ、3人は、それぞれ自分の人生を精一杯生ききったと実感される。そこがいい。

全身小説家

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好きな映画をもう一本! その井上光晴を描いたドキュメントが、「ゆきゆきて、神軍」(1987)「水俣曼荼羅」(2021)を撮った原一男監督の1994年の作品「全身小説家」だ。
映画は、井上光晴の日頃の文学者としての活動を描く部分と、病気で亡くなった後、関係者に取材して、彼の一面をあぶり出す部分に分かれる。彼にはどうも「虚言癖」というものがあり、生前言っていたことが実は、ウソだったということが、関係者の証言で分かっていくのだ。親の借金で中学を受験できなかったと言っているが、実は受けていて落ちたとか、初恋の人は在日朝鮮人で、再会したのが娼館だったというのがウソとか。まあ、話をドラマティックかつ面白おかしくする類で、大きな実害はないのだが。

印象に残っていることが幾つかある。彼は、「文学伝習所」というサークルを作り、文学志望者に小説の書き方を教えていた。その女性の教え子たちが、一様に口を揃えて彼を絶賛し、「心の夫でした」と、顔を上気させながら語る。むろん、そこには男と女の関係があったことが含まれる。井上は受講者全員に声を掛けて、確か3割は関係があったという発言も出てくる。井上はカリスマだったんだなあと思う。もてまくっていて、羨ましい限りだ。昭和にはこんな人物がいたんだ。ただ、映画で見る限り、井上に嫌な感じを持たない。これが、彼の「人たらし」の魅力なのだろうか。
もうひとつ、井上の葬儀の時に、寂聴が弔辞を読むが、「私とあなたとの間には男女の友情しかありませんでした」としれっと言う。なかなかしたたかなのである。これも結構可笑しいが、人間、これくらいタフでなければいけないのだ。

(by 新村豊三)

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