「大地が『まだ』存在しないとは、どういうことですか? 『ニフェ・アテス』が題材にしている大地は、遠い昔に海の底に沈んでしまったのですよね」
私は長老アトラに聞いた。左右にはまだ「畑」が続いている。
「その通りです。我々の祖先は、大地を捨てて立体都市に引きこもりました。そのあいだに大地は失われてしまいました。ですが、いつか必ず復活します。我々はそこへ帰るのです。それが大地信仰です」
「そういうことですか……いや、待ってください。私は先日手がけた事件で宇宙へ行き、シャトルの窓からオールドアースを見ました。そこには海だけでなく、陸地もたしかにありましたよ」
「『陸地』と『大地』は違います。大地とは、水や作物などのめぐみをもたらし、命を育んでくれるゆりかごです。真に豊かな大地、我々の故郷がよみがえるには、さらなる時間が必要なのです。交響曲『ニフェ・アテス』は、そんな大地への強い憧れを表現しています」
長老の話を聞きながら、私の中の疑問が大きくなっていった。
ここの住人たちは、理想郷を待ちのぞみながらつつましく暮らしている信仰集団にすぎない。では、なぜ——
私は、思いきって聞いてみた。
「なぜ、立体都市運営委員会は大地信仰を危険視するのですか?」
長老アトラは私の質問に嫌悪感を示すこともなく、これまでと同じように淡々と答えた。
「立体都市は、その中だけで生産—消費—再生の循環が成り立っています。食料品や日用品の生産量は、その時々の消費量に応じて立体都市運営委員会が綿密に計画しています。委員会にとっては、立体都市の外に生産機能が存在するなどということは、立体都市の存在意義を揺るがす一大事なのです」
つまり、立体都市運営委員会の凝り固まったプライドが許さないということか。
「あなた方は、立体都市運営委員会から敵視されていることがわかっていたから、この村の存在を秘密にしていたのですね」
「その通りです。だから、下層は恐ろしいところであるという噂を流し、実際に罠もいくつか仕掛けてあるのです」
そこでアレキセイが、ハッとしたように顔を上げた。
「ぼくは『ニフェ・アテス』を、なんのために作られたとか、どういう意味を持っているとかを全部合わせて公表するつもりでした。それが父の遺志ですし、そうしないと公表する意味がありませんから。でも、そうすることで、ここのみなさんに迷惑がかかりはしないでしょうか」
長老は、やさしい目でアレキセイを見下ろして、威厳に満ちた声で言った。
「アレキセイ。我々は運命を信じる一族なのだよ。きみが『ニフェ・アテス』を求めて下層にやってきたことをコウモリ・ネットワークで知ったとき、私は運命を感じた。だからレムリを遣わしたのだよ。きみは自分の信じることをなしとげなさい。信念を持って行動すれば、運命は我らを行くべき場所へと導いてくれる」
アレキセイは長老の言葉に勇気づけられたようすで、力強くうなずいた。
だが私は、別のことが気にかかっていた。音楽アカデミーから依頼を受けて『ニフェ・アテス』を探しにきた元警官のやさぐれ探偵、サムのことだ。奴はここを嗅ぎつけるだろうか。そして、音楽アカデミーの真の目的はなんなのだろう。サムは、アレキセイの父であるトトノフスキイ氏の名誉回復をはかろうとしているのではと言っていたが、本当にそうだろうか。もしそうならば、音楽アカデミー公認の上で、息子のアレキセイが公表するのがいちばんいいはずだ。
我々は、小さな礼拝堂のような建物についた。中へ入ると、小さいながらもおごそかな空間が広がっていた。手前に木のベンチが並び、奥の壁いちめんに、機械のような、装飾のような、複雑で不可思議なレリーフが広がっている。
長老は中央の通路を進み、手を広げてそのレリーフを示した。
「四角石の再生装置です」
私とアレキセイは口をあんぐり開けて見上げた。こんなに大きなものだったとは。
アレキセイは、服の中から小さな袋を取り出し、あやしく輝く四角石を取り出した。
「では、お願いします」
と言って、アレキセイは長老に四角石を渡した。
「いよいよだな。ところで、再生するのはいいが、きみはどうやってその曲を『持って帰る』つもりなんだい?」
アレキセイは意外そうな顔で私を見上げ、それから得意そうににっこりした。
「銀猫人は並外れた記憶能力を持っているんです」
「まさか、交響曲を全部暗記するつもりなのか?」
「はい、そうです。長老さま、曲の長さはどれくらいですか?」
「80分ぐらいだな。できるかね?」
「できます」
アレキセイは頷いた。私は思わず、ヒュウと口笛を吹いた。
私とアレキセイ、それにレムリは、最前列のベンチに腰掛けた。
曲が始まるのを待ちながら、私はかすかな胸の痛みをおぼえた。
ジョーに聞かせてやりたかったな。
(第二十五話へ続く)
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