足の下を雲が流れていく。最初は気がつかなかったが、この屋上は極めて屈折率の低い透明なドームに覆われているようで、強い風にさらされることもなく、快適な気温と湿度が保たれている。
素晴らしい食事のあいだ、レディMと私は当たり障りのない話をした。それがマナーというものだ。
デザートが終わって、エムニがコーヒーのおかわりを注いでくれたとき、私はさりげなく口にした。
「正直にいうと、私は今でも、本当に元の世界に戻ることができたのか、確信が持てないのですよ」
レディMは、穏やかな表情を崩さずに答えた。
「そのお気持ちはわかります。時間立体が並列状に展開し、収束したことによる『この』世界への影響は調査中ですが、厳密には確かめようがないというのが本当のところです。ですが、これだけは言えます。あなたと私は一緒に戻ってきました」
「たしかに。……私は、あなたがどうして時間展開立体の中に入ることができたのかと考えていました。その推理をお話ししてもよろしいでしょうか?」
「ぜひお伺いしたく思います」
私はコーヒーカップを置き、レディMを注意深く見つめた。
「あなたも物質転送装置をくぐったのでしょう。私と同じように」
「その通りです」
レディMはあっさり肯定した。そして続けた。
「開発中の物質転送装置には、人が持っている『恐怖』を増幅させてしまうという副作用がありました。しかし、もうひとつ、有用な副作用があったのです。それは『時間展開立体に入り、自在に動き回れること』です。あなたを観察してそのことがわかったので、あなたが時間展開立体に取り込まれたあと、私も物質転送装置を通りました。そして、できたばかりの『対ヒューマノイド・F砲』を持って時間展開立体に入り、あなたを探したのです。あっ、この言い方は正確ではありませんね。あなたに探していただいたのです」
レディMはこともなげに話したが、私は内心でため息をついた。つまり、彼女がもともと持っていた恐怖も増幅されたということだ。しかし私はその点には触れず、別の質問をした。
「フェアードマン卿のヒューマノイド――ヒューマノイド・Fは、果たして一体だけなのでしょうか?」
「なぜ、そうお思いになるのですか?」
「『対ヒューマノイド・F砲』を向けたとき、あのヒューマノイド・Fは逃げるそぶりを見せなかった。座して死を待つといった感じでした。それは、スペアがあるからでは?」
「ご推察の通り、まだどこかにヒューマノイド・Fのボディが保管されている可能性は否定できません」
「あなたは、第二第三のヒューマノイド・Fが現れることを警戒しているのですね。『この』世界のノルアモイはいなくなりましたが、他の方法で時間展開立体を作るかもしれないと」
レディMは静かに微笑んで、肯定の意を示した。
「そのためにあなたは、新たに獲得した『体質』を保っておくつもりなのですね」
するとレディMは、ハッと息を飲んだ。
「物質転送装置によって増幅された恐怖を取り除く研究は進めております。責任を持って、あなたを元の体に……」
私は手を上げて制した。
「いえ、私のことはどうでも良いのです。私の増幅された恐怖の対象であるノルアモイはもういませんし、元の体に戻ったら、時間展開立体に入れなくなってしまうのでしょう? それはなんとなくもったいない気がします。問題はあなただ。あなたの増幅された恐怖とは……低所恐怖症でしょう?」
彼女はまた、静かに微笑んだ。
私は、今度は実際にため息をついた。
「なんということだ」
レディMは、この屋上のドームから一ミリたりとも降りることができないのだ。床の鏡面も、「下」に意識を向けないようにするためだろう。
「それほど問題はありません。立体都市のどことでも連絡は取れますし、対面で何かすることが必要ならエムニがいます」
私は気づいた。そう、彼女にとっては大したことではないのだ。極度の低所恐怖症があろうがなかろうが、フェアードマン家の当主がレッドイーグル探偵社を訪れることは、ない。
しかし、これで本当に、レディMは「雲の上の人」になってしまった。
「たしかに、不自由はなさそうですな。では、最後にもう一つだけ質問させてください。F・フェアードマンは兵器としてノルアモイを作ったと思われていましたが、実際には超人工知能を形成する手段に過ぎなかった。Fはノルアモイが脱走したように見せかけ、それがとても恐ろしいものであるという潜在意識を人々に植え付け、その恐怖を利用して、200年かけて時間展開立体を作ることに成功した。Fはあと一歩で神にも等しい存在になるところだったのです。Fはなぜそんなことをしたのですか? やはり最終目的は兵器を作ることなのですか? だとしたら、彼は一体、何と戦っているのですか?」
レディMの顔に、微笑みは浮かばなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じて、また開いた。
「それはお教えできません。あなたの安全のためです」
静かに、だがきっぱりと言った。
私はいとまを告げるときだと悟った。
レディMは、再び和やかな雰囲気になって、丁重に見送ってくれた。
エムニがまたエレベーターに同乗し、入り口まで送ってくれた。
「また来てねっ☆」
彼/彼女は、天真爛漫な笑顔で手を振った。
灰色の中層階へ行くエレベーターに乗りながら、今夜はジョーのところで晩飯を食おうと決めた。お好み焼きをオーダーしたら、奴はどんな顔をするだろうか。
(おわり)
(by 芳納珪)