がちゃん!
瀬戸物が触れ合う大きな音がした。
驚いて自分の手元を見ると、しゃれたカップのふちから飛び出したコーヒーが、ソーサーの中と、そのまわりのテーブルの上を濡らしていた。
カップを置くとき、手元が狂ったらしい。
すかさず、メイドが音も立てずにやってきて、汚れをささっと拭った。
その手際があまりにも見事だったので、私はお詫びもお礼も言うのを忘れてしまっていた。
メイドが立ち去ると、レディMは何事もなかったかのように再び口を開いた。
「あなた方は、あの場でご覧になりませんでしたか? 青い炎とか、大きな馬とか……そう、子どもを怖がらせる言い伝えに出てくる『ノルアモイ』のような」
「俺、俺は見たぜ!」
レディMの言葉にかぶせるように、グレコが叫んだ。それまでちゅうちゅうと吸っていたココナッツジュースのストローから口を離し、テーブルの中央に進み出て、身振り手振りを交えて訴えた。
「ノギス寿司の箱を触ったときに見えたんだ、ロスコが見たものが。ものすんげーでっかい馬が燃えてたぜ。そんで、その火の色はすんげー不気味な青なんだ」
「彼は接触型のエスパーなのです。彼が見たロスコが見たものを私も見ました」
私は横から補足したが、なんだかややこしい言い方になってしまった。
察しのいいレディMはそれでも理解したようで、表情を引き締めた。
「では、たしかに現れたのですね」
「どういうことなんだ。ロスコがああなったのは、そのノルアモイだかなんだかのせいだってのか」
グレコは勢いづいたが、レディMは、逡巡するように口ごもった。グレコはさらに身を乗り出した。
「教えてくれ! ロスコは命の恩人なんだ。だからこんどは、俺がロスコを助けてやりたいんだ!」
レディMは、ハッとして目を上げた。
「あなたは、あの占いねずみに縁のある方だったのですね。……では、お話ししなければなりませんね」
そう言うと彼女は、居住まいを正した。凛とした気品が、その場に満ち溢れるようだった。グレコもその雰囲気に飲まれたのか、後ずさって元の位置に戻った。
レディMは、テーブルの上で両手の指を軽く組み合わせると、しずかに話し出した。
「ノルアモイの正体は、高度な人工知能を搭載した人造馬です。造ったのは、F・フェアードマン。七代前の当主です。約200年ほど前のことです」
フェアードマン家は、卓越した科学力で富を築いた。新しい技術を開発し、それを製品に落とし込んで収益化するまで一貫した体制を持ち、常に時代の先端を走ってきた。しばしば、誰も思いつかなかったような発明をするので、フェアードマン家の奥には未来と行き来できる通路があると噂されるほどだった。
「しかし、その人造馬は完成を待たずに逃げ出してしまったのです」
「つまり、ノルアモイの言い伝えはその人造馬の目撃談に尾ひれがついたものだと…? でも、ロスコが見たのはそれではないでしょう。どのような機械か知らないが、200年前に作られたものが未だに動いているわけは……」
「ところが、その可能性があるのです」
レディMの口調が真剣さを増した。私とグレコは、固唾を飲んで彼女の次の言葉を待った。
(第九話へ続く)
(by 芳納珪)