脱線

連載のテーマからは逸れるが、前回の続きである。

柳野嘉秀氏が「人を知る、世界を知る」のなかで、アメリカ大統領選についてのイギリスでの報道をレポートされているのを興味深く拝読した。(参照こちら
氏の「人々は自然と同じ言語を話し、同じバックグラウンドを持つ人々とグループを作ります」と言うコメントには全く同感である。

前回私は、Brexitとアメリカ大統領選について、自由競争、市場原理という資本主義の正義が強力に押し進められた結果増大した経済的格差に注目し、競争の「敗者」の側の恨みの感情が上流階級(「勝者」たち)への「祟り」につながったと表現した。
移民の問題についていえば、国家が平等と博愛と言う正義を押し進めるために、人が持っている、自分に似た人(言語、人種、性別等において)に親和性を感じ、自分と異なる人に反発するという自然な感情(これを差別感情と呼びたい。※注1)を無視した結果、多くの人々の激しい反発を受けたのだと思う。
とくに近年移民によって職が奪われ、自分たちの税金が奪われているという被害感情によって、移民に対する反発は非常に高められていたと考えられる。
興味深いのは、イギリスでもアメリカでも、政府やマスコミが投票結果を事前に予測できなかったと言うことである。
このことは、私にフロイトの神経症についての理論を連想させる。

フロイトの神経症についての説明の概略をまとめてみよう。
人の心の中には、さまざまな感情がある。一方、社会で生きて行くために身につけた倫理も心の中に内在化されている。 感情と倫理はしばしば衝突するが、強い感情と厳しい倫理が対立し、倫理が勝つと、感情は、それらを引き起こした出来事の記憶とともに意識の外(下)へと抑圧される。「そんなことを思ってはいけない」が、「そんなことは思ったことがない」にすり替えられる。
だが、感情自体は消滅せず、本人が意識しないところで行動に影響を与え、意識の統制から外れた問題行動や奇妙な症状を引き起こす。
治療としては、感情の短絡的な行動化を避けつつ、治療室という安全な環境の中で、抑圧された感情を再び意識的に体験し、時間をかけてそれらと自分の倫理および外界の現実との間の折り合いを付けて行くことで、症状の解消を図る。

フロイトの時代の欧州の上流階級の人々(フロイトの患者は、主に上流階級の富裕層であった)には、キリスト教の倫理が強い影響を与えていた。とくに性的な奔放さは厳しく戒められていたため、性欲は抑圧されがちで、神経症の原因となった。そのためフロイトの理論では、性欲が重視される。

現代の欧米諸国では、性欲に対する抑圧は、当時と比べればずっと弱くなっている。
一方、多人種、多民族が共存する社会では、人種や宗教の異なる人々に対する差別行動は絶対的な悪であり、そのような差別行動につながる危険のある差別感情も抑圧されている。
その結果、社会の「意識」に相当する政府やマスコミは、自国の社会における差別感情の高まりを把握できなくなっていたのではないか。その間に、この危険な感情は、移民に対する暴力や嫌がらせなどの「神経症的」な問題行動を頻発させた。
社会現象に個人の心についての理論を当てはめるのは、論理の飛躍と思われるかもしれないが、多数の個人の心の中で共通に起こっていることが社会の動きを作ると考えれば、そう的外れではないであろう。

今年、イギリスとアメリカでは、国民投票や選挙という形で、今まで社会の意識の外へ排除されていた人々の感情が意識化された。
今後は、この感情と、自由・平等・隣人愛という倫理、そして人種や宗教の異なる人々が共存するという現実の間の折り合いを、何とかつけていかなければならない。
そのためには、極端な行動を阻止しながら、移民、先住民、政府の間で時間をかけて話し合いをして行く必要があるのだろう。
合意形成のために、マスコミが果たすべき役割も大きいと思われる。
最悪なのは、感情的な排外主義の政権と、過度に理想主義的な政権が、二重人格のようにくるくると交代することだろう。

(※注1 差別感情は、誰にでもある自然な感情であろう。しかし、自分と異なる人々を理由なく攻撃したり、自分と同類の人を職務の上で優遇するような行動は許されない。性欲が自然な欲求でも、性犯罪が許されないのと同じである。)